2016年2月15日月曜日

プラスチック的悲しみ

別に変な思い入れはないのだけれども、新譜はまだ聴いていません。
日経の"春秋”が素敵な仕上がりだったらしく、一部で話題になっていました。

春秋 13.1.2016  日経新聞

「火星から来た宇宙人」を名乗り、ウルトラマンをまねたような扮装(ふんそう)で歌い踊る。子供だましと言えばそれまでだが、怪獣特撮ものやコスプレなどの日本のサブカルチャーを世界に広める大使的役割を担ってくれたことは忘れてはならない。

オレたちのボウイをなめてんのかよ、と激昂するオールドファンよ、あれ。
なんだかひどい文章で、膝を打って感心しているところです。

ところで「子供」という言葉って最近使わないのじゃないかしら。「子ども」と書くのが標準的なんじゃないかしら。など、どうでもいい難癖も思い浮かびました。大人なのでとやかくは言いませんけど。








妙に印象に残っているのはNTT DATAのCM。"Lady Stardust"が挿入されていた。もちろん有名な曲なので、知ってはいたんです。大学生くらいだったかな。

記憶があいまいなんだけれど、そのCMではたしか、コーラスからではなくて、ブリッジ("The boy in bright blue jeasn~♪"ってところ)から挿入されていた。
ブリッジのメロディはマイナーで、そこから聴くと、もの悲しく、はかなげだ。IT的近未来な映像は、古い曲と不思議とよく溶け合う。

ほら、"Space Oddity"だって、もの悲しいじゃないですか。地球から徐々に、遠ざかるボイジャーの気持ちになってしまうのよ。SFとか近未来とかって、必然的にもの悲しいのかしら。なんだろう。この場所からの断絶。孤独と沈黙の世界へ向けた、終わりなき旅。


"Lady Stardust"って歌詞を読んでも意味がよくわからない。ゲイボーイの歌かな?と思うくらいで。だって明るいブルージーンを履いた少年が、ステージに飛び乗ったと思ったら、「レディー・スターダスト」が歌うんだよ?未だによくわからない。



以前もこんなことを書いた。
プラスチック・ソウル
ああなつかしい。

きっと、ボウイが「子供だまし」に見えるのは、きっと衒いもなく(浅はかな)ニセモノを演じてしまうからだ。コピーだとしても、薄っぺらいと。
では、「ニセモノ」としての彼は、瑣末なものだったかといえば、とんでもない。
結局のところ彼は、ロック・スターであり、様々な化体をまといつつ、常に「ボウイ」であり続けた。
日経の記事は、そこがキレイに欠落している。これじゃあ地方スーパーでやるヒーローショーみたい。まるでボウイが日本の文化を伝道するために歌舞伎ルックスの仮装してるみたいじゃない。


むしろ。ボウイが、不完全なコピーに過ぎなかったことにこそ、魅力があるのではないか。そんな気もする。
(たぶん)女性になってみたり、ファンクやブラックミュージックに接近したり。対象物に接近しつつ、結局は本物にはなりきれない。漸近線はどこまで肉薄しても、接しないよう。
そこにはやはり、そこはかとない悲哀がある。そう思う。これをさしあたり、「プラスチック的悲しみ」と呼ぼう。そこには、クローン・コピーにはないオリジナリティと、美しさがあるだろう。言ってみれば、それは既に本物とは別の「なにか」であった。

ボウイのキャリアを見渡して、好きな部分ってごくわずかしかない。でも、その「ごくわずか」は、いともたやすく僕を貫いた。真冬の冷気が身体を刺すような寂寥感。そしてちょっとへたっぴな、温かみのある声。

印象深いアーティストがまたひとり、この世を去ってしまったな。


…常に変わり続けることで新たなファンを獲得してほぼ半世紀、芸能界の最前線に立ち続けた。最新作の発売は亡くなる2日前である。時代の変化に乗り遅れがちな日本の経営者は、そこにもよく注目してほしい。
どこまでもエコノミックアニマルな日経さん。さすがです。
日本の経営者はボウイから何を学ぶというのだろう。本人も書きながら、よくわかっていないんじゃないかしら。