2016年9月2日金曜日

永く価値をもつものに投資をすること

ビジネス雑誌は割と好きです。

どうも世間では金投資が盛んだという話で、景気が良いのだか悪いのだかよくわかりません。給料は特に上がっていません。
なんでも、金は需要はあるにも関わらず、今後採掘できる金鉱は今の10倍のコストがかかる、故に金の価値は上がる、という論法なのだそうです。

そうか。金でも買うか。



林業界にもかつて「緑のオーナー制度」というお話がありました。投資家から管理経費を募り(一口50万円だとか、25万円だとか)、伐採・売却後の収益を所有者と投資家で山分けするものでした。
これは「分収林」と呼ばれる仕組みで、昔からある制度です。緑のオーナーが問題になったことと、元本割れしたことと、そのことに関する説明が不十分だったことにあります。
下記のページに詳しいことが記されています。

問題の所在  緑のオーナー制度被害者弁護団のページ
未だに後を引きずっていて、未だにこんな記事が。
「緑のオーナー」元本割れ 二審も国に賠償命令 大阪高裁判決 29.2.2016 日経新聞

1,523箇所のうち、元本割れしなかったのは81箇所とか、なんだかひどい焼け野原となっているのですね。
「緑のオーナー」って言葉もキレイだし、環境にも良さそうだし、お金も儲かるなんて素敵。と思います。提供しているのは国だし、なんだか国債みたいじゃないか、みたいなね。
しかし、投資である以上、絶対儲かる話なんてインサイダー取引くらいのものです。投資家諸兄はそこを踏まえるべきであった、と投資家ではない素人が言ってみます。



ほんで、この制度、今はどうなのだろうか。ゲスい心満載で早速捜索に行きました。林野庁のページに今年度の状況についてもアップされておりました。
分収育林販売予定箇所及び販売結果

不落案件が非常に多いことに驚かされます。
そして落札された案件をみても大半が10〜30万円台。問題が発覚してからずいぶんと時間が経っていますが、現在でもなお額面割れで精算した団地が次々と生産されていることを意味します。
これは、思った以上の焼け野原。思わず震撼しました。


ちなみに契約延長というのは、もう少し時間をおいて太らせ、より高い値段での売却を狙おう、という趣旨であると考えられます。たとえば40年生で伐採するはずだったけど、60年生にするとか、そういった形で延長契約を結び直します。
基本的に木材は、直径が太いほど値段が上がる傾向があることから、放置して太らせるというのは、林業的には収益向上を図る一つの戦略となります。今売ると大赤字になって、甲乙仲良く泥沼に沈んでいくことがあまりにも明らかなので、先延ばし戦略を図っているわけです。
再契約-長伐期化というのは投資的な観点で言えば「損切り」できなかった成れの果て、という見方ができます。投資的観点で言えば、塩漬けということになります。
しかし、40年を60年にするとなると20年のスパンが空きます。37歳の僕であれば57歳になってしまう。一般的に投資家という人々は年齢の高い方が多いので、20年の延長って、正直イヤだろうね。うっかり鬼籍に入るんじゃないかと心配になります。
契約満了までに所有者が死んでしまうケースというのは、そもそも投資としてはどうなのだ、と思うわけです。利子も配当も得られず、当事者は肉体的・精神的に根負けし、退場する。投資として考えるならば、100の投資に対して(別に1000でも万でもいいのだけれど)リターンは0。

こんなことを考えてて思うのは、人の寿命の短さであり、もう少し言えば、浅ましさです。人は僅かな時間でしか生きていないのだ、と。その僅かな時間でいろいろなことを考えて、せこせこと活動しているらしい。どうもそうらしい。


ひとりのせこせことした人間として。
いますこし、考えを進めるならば、「緑のオーナー」で生活の糧を得ようとした人は、そもそもそんなに多くなかったはずです。食うや食わずの人はそもそも長期投資をしないでしょ。
実体として損切りをしなくても、彼らは心理的にロスカットしてたんじゃないか、と想像します。もちろんもちろん、そうであったとしても元本割れは許せないでしょうが。

考えてみると、塩漬けとは、なかなか味わい深いが言葉です。
今すぐ食べられないものは塩蔵する。なんだか狩猟採取民族の精神を感じます。塩蔵すると毒も消えるという言い伝えもありますし。本当かどうかは知らないけれど。


今すぐに食べないものは、いつ食べるのだろう。食べどきになったときかもしれないし、あるいはそのまま食べられないまま忘れられたり。
長期保存というのは、長期とはいえ、たいていの場合、賞味期限があります。賞味を前提としたものであれば、忘れないし、期限は比較的短いはずです。
その期限というのは、やっぱり忘れない範囲、もっといえば死なない範囲であるはずだ。
思考は戻る。忘れられたものって、どうなるんだろう?
やっぱり朽ちるのか。やっぱり。
では、朽ちないものは?金みたいに。木みたいに。

もう少し美しい言い方をしてみよう。保存したものが使われなかった、さらには朽ちなかったもの。それは、単なる宝ものじゃないですか。
我利我利亡者の欲は、時間の経過とともにきれいさっぱり漂白され、蒼然とした、持ち主不明の森だけが残りましたとさ。
ああ、なんだかとってもいいね。童話が描けそう。



投資が成らなかったのは、個人として納得しない。お金持ちになりたいもの。そうだといって、思う通りにならないものが投資なのだとする。
僕が塩漬けを作ったとして、僕がそれを食べずに死んでしまったとして、誰かがその塩漬けを見つけて、らっきー、と食べる。塩漬けはダメにならず、ふくふくと年々熟成し、育まれたとする。
どっちにしても、僕としてみればもう関係ないよね。だって死んでるんだもん。過去の投資なんてどーでもいい。
むりやりコメントをするならば、おいしく食べてね、くらいのものだ。



「単なる未来へのギフト」と化してしまいそうな今林はたくさんあって、確かに残念なことであるけれども、そんなに悪いことばかりじゃない。
なにより、「単なる」未来へのギフトという言葉がいい。そう思うのだけれど。