どうも、Fu-metalです。
クリムゾンの"太陽と戦慄"を聴きながら書いていますが、宿題として自分に課したものですので、あえてベビメタについて書いてみようと思います。もう10月になりますが。
もう、かの"メタル・ゴッド"と共演している時点で、なんともはや、という感はありますが。"ペイン・キラー"がそんなにいい曲だとは未だに思えない。オモチロイ。そうは思うけど。
さて、少し時間を巻き戻して。
時はフジ。ホワイト入場規制。立錐の余地もないとはこのこと。
そりゃあね。グリーンステージでやるべきであったよ。間違いなく。危険を感じる混み具合だったから。それはそれとして。
我々は以前、ベビメタに対する評価が世界的にみてもまさに甲論乙駁、群雄割拠の状況であることを確認した。そして、ま、楽しければいいのじゃないの、というグズグズの結論を導き出した。
全力投球で応援する猛者がステージ前方に詰めかける中、意外と、といっては言い過ぎなのかもしれないけれど、女の子も多い。
そして僕の前と横に子どもを連れた家族が。お父さんに抱っこされた小さな女の子が、けっこうしっかりと歌っているんです。ちょっこれーと、とか。
おぢさんはね、おどろいた。これはまさに、アイドルの所業ではありますまいか。
ライブはね、よかったですよ。
あまり聴かないんだけれど、折りに触れ日本人のバンドを聴くと、なにかしら通底する感性があるのだと感じます。すとん、とおちるというか。それがメロディによるものなのか、展開なのか、よくわからぬが。今回のステージでもおんなじことを感じた。
また、バックをつとめる白浴衣のおっさんたちの技量に申し分などあるはずもなく、実に現代的かつ高性能のメタルを演出していました。
もともとメタル色の薄いフジにあって、最も極右のアクトと読んで差し支えないと思いますが、全体として中道右派くらいが政権とりやすいよね、みたいな混雑ぶりでした。ちなみに極左には、大森靖子師を据えてみたい。左右が逆でも僕はかまいません。
そう。
もう一つ感じたのは、歌っている子と合いの手を入れる子の関係性。
近年のメタルに於いては、いわゆるグロウル(以前はデス・ヴォイスと呼ばれていたあいつ)とシンガーが分業されているケースが多く、ベビメタの3人の女の子の役回りもこれに近いように思いました。
大御所Slipknotなんかは一人二役で、猛々しいディストーション・ヴォイスからのきれいなクリーントーンには、伝統芸能というか、ある種の色気すら漂います。しかし、コリィが破格の歌い手であることを差し引いても、普通に考えて喉の使い方があまりに違う唱法なので、やむを得ない流れでしょう。
そういったバンドは、唱法とともにキャラクターの違いで分離しているように思えていていて、ベビメタも同じような役割分担があるのかしら、などと思いました。
そんなことを考えると、能楽の謡と囃子みたいで興味深い。双方前面に出ているので、彼女たちはシテであり、ワキであると言うべきかもしれません。
本当の囃子は後ろの白塗りのおっさんたちなのかもしれないけれども。
未だにメディアで「ヘビメタ」という単語でダサいものとして扱われていることは不当であると思うんだけれども、ベビメタは「ヘビメタ」的側面を強調しすぎることによって、全力で茶化し、ネタしているのだな。突っ立ってライブをみて、そのように感じました。
彼らが敢えて「本物のメタル」を標榜しているのは、アンチを含めて茶化しているように思われます。
茶化すことにより、換骨奪胎され、漂白され、広がった焼け野原に立ち尽くした観衆は、ただただ、ゴリゴリの音楽およびかわいい女の子たちを目撃するのです。
なにより、あれほどテクニカルで存在感のある演奏を続けているのに、観客は(僕もな)3人の女の子しかみていない。うしろのおっさんたちの印象が残っていない。6弦ベースでバキバキいっているのはかっこよかったのに。かわいそう。
あとだな。
もう一つ感じたこととして、37さいのおっさんが夢中になるには、歌詞がいささか恥ずかしい。やっぱな。正直な。
元来僕はすごく恥ずかしがり屋であり、人がやっているものであっても恥ずかしいものは恥ずかしい。
でも英語ならそれっぽく聴こえる。それは僕があんまり英語を解していないからであり、もし僕が恥ずかしがり屋のネイティブの英語話者であれば、おんなじように感じていたかもしれない。
思い出すのがVan Halenの"アイスクリーム・マン"。あれって完全にアイスクリーム屋さんの歌です。が、かっこよいので聴いてしまう。
いろんなフレーバーを用意したぜ、俺が来たら立ち止まってくれよ、とか。意味はある。でも別に血湧き肉躍る感じのテーマではないし、特に37さいが耳を傾けるべき歌詞だとも思わない。そんな意味で、僕は雰囲気で音楽を聴いているところがある。
しかし、こうした羞恥心と、メタルキッズがベビメタ抱く嫌悪感とどこかで通じているような気がする。
仮にベビメタに「中身がない」と評うキッズがいたとしたら、彼は中身とはなんなのか知っていなくてはいけない。
もちろん知らない可能性もある。糸巻きでぐるぐると糸を巻いて、すっと糸巻きを抜く。宗教なんかでこんな形容がなされる。狂信的キッズのみなさまであれば、こんな風に崇拝している可能性も、もちろんある。
でももうひとつの場合もあるでしょう。彼は中身を知っていて、かつ差異化が不可能であると知っている場合。
テクニックだったり、筋力だったり、センスだったり。そうしたものが同等だったと知りながらも、その同質性を認めたくない場合。人は、深遠さを持ち出すかもしれない。これは感性の問題でもあるから、微妙な話になる。つづまるところ、当人が違うといえば、それは違うのだ。
胸ぐらを掴んで、ホラ、同じだろ、と強要するものではないからね。
こちらについては、特に付け加えるべきことはない。
それぞれスタイルにあった楽しみ方をすればいいのではないか。と前回同様、我々はクズグズの結論を導き出すことに、今回も成功したようだ。
一方で、僕の中に湧き上がる羞恥心もね、誰かさんに絶妙にコントロールされている気がするのだ。敢えて絶妙な下世話さやダサさを全面に出すことによって、「終わったジャンル」であるメタルを拾い上げ、キッズたちを苛立たせるハンドリング。
しかも、当の誰かさんではなくて、明らかに別世界の住人だった女の子がフロントに立つのだ。誰かさんは悪しきサタンであるかもしれないけれど、彼は僕やキッズたちのメンタリティを精緻に把握していることだ。
ふと思い出す。
中学生だったか、とにかくずっと昔のことなんだけれど、ハイスタが流行りました。Hi-Standardですよ。形容するなら日本人の英語で歌われるメロディックなパンク、なのかな。メロコア隆盛の綺羅星の一つに数えても良さそうな感じがします。
ロックに、ましてや洋楽に興味がない子の間にも、ふわっと流行った。まるで野火のように、風疹みたいに。そんな印象があります。
なんであんなに流行ったのか。理由はきっといろいろあると思いますが、ふつうの子がなんとなく耳にして、すごくかっこよかったんでしょう。僕もかっこいい、と思った。
あれは確かに、ギラリとした光でした。
かっこよいものは、掛け値なしにかっこよい。もし僕のうしろで聴いていた、推定5歳くらいの女の子がそういう風に感じているのだとしたら。
メタルだ、なんだ、という議論は、すごく後景に遠のくように感じられるのです。
でも僕はね、こうも思うんだ。
たぶんその幼き子は、悪しきサタンの傀儡たる毒親により、徐々に洗脳される過程であってだな。いずれ地獄の蓋が開き、サタンの住まう暗黒世界に差し出されるべき生贄としてのせry
クリムゾンの"太陽と戦慄"を聴きながら書いていますが、宿題として自分に課したものですので、あえてベビメタについて書いてみようと思います。もう10月になりますが。
もう、かの"メタル・ゴッド"と共演している時点で、なんともはや、という感はありますが。"ペイン・キラー"がそんなにいい曲だとは未だに思えない。オモチロイ。そうは思うけど。
さて、少し時間を巻き戻して。
時はフジ。ホワイト入場規制。立錐の余地もないとはこのこと。
そりゃあね。グリーンステージでやるべきであったよ。間違いなく。危険を感じる混み具合だったから。それはそれとして。
我々は以前、ベビメタに対する評価が世界的にみてもまさに甲論乙駁、群雄割拠の状況であることを確認した。そして、ま、楽しければいいのじゃないの、というグズグズの結論を導き出した。
全力投球で応援する猛者がステージ前方に詰めかける中、意外と、といっては言い過ぎなのかもしれないけれど、女の子も多い。
そして僕の前と横に子どもを連れた家族が。お父さんに抱っこされた小さな女の子が、けっこうしっかりと歌っているんです。ちょっこれーと、とか。
おぢさんはね、おどろいた。これはまさに、アイドルの所業ではありますまいか。
ライブはね、よかったですよ。
あまり聴かないんだけれど、折りに触れ日本人のバンドを聴くと、なにかしら通底する感性があるのだと感じます。すとん、とおちるというか。それがメロディによるものなのか、展開なのか、よくわからぬが。今回のステージでもおんなじことを感じた。
また、バックをつとめる白浴衣のおっさんたちの技量に申し分などあるはずもなく、実に現代的かつ高性能のメタルを演出していました。
もともとメタル色の薄いフジにあって、最も極右のアクトと読んで差し支えないと思いますが、全体として中道右派くらいが政権とりやすいよね、みたいな混雑ぶりでした。ちなみに極左には、大森靖子師を据えてみたい。左右が逆でも僕はかまいません。
そう。
もう一つ感じたのは、歌っている子と合いの手を入れる子の関係性。
近年のメタルに於いては、いわゆるグロウル(以前はデス・ヴォイスと呼ばれていたあいつ)とシンガーが分業されているケースが多く、ベビメタの3人の女の子の役回りもこれに近いように思いました。
大御所Slipknotなんかは一人二役で、猛々しいディストーション・ヴォイスからのきれいなクリーントーンには、伝統芸能というか、ある種の色気すら漂います。しかし、コリィが破格の歌い手であることを差し引いても、普通に考えて喉の使い方があまりに違う唱法なので、やむを得ない流れでしょう。
そういったバンドは、唱法とともにキャラクターの違いで分離しているように思えていていて、ベビメタも同じような役割分担があるのかしら、などと思いました。
そんなことを考えると、能楽の謡と囃子みたいで興味深い。双方前面に出ているので、彼女たちはシテであり、ワキであると言うべきかもしれません。
本当の囃子は後ろの白塗りのおっさんたちなのかもしれないけれども。
未だにメディアで「ヘビメタ」という単語でダサいものとして扱われていることは不当であると思うんだけれども、ベビメタは「ヘビメタ」的側面を強調しすぎることによって、全力で茶化し、ネタしているのだな。突っ立ってライブをみて、そのように感じました。
彼らが敢えて「本物のメタル」を標榜しているのは、アンチを含めて茶化しているように思われます。
茶化すことにより、換骨奪胎され、漂白され、広がった焼け野原に立ち尽くした観衆は、ただただ、ゴリゴリの音楽およびかわいい女の子たちを目撃するのです。
なにより、あれほどテクニカルで存在感のある演奏を続けているのに、観客は(僕もな)3人の女の子しかみていない。うしろのおっさんたちの印象が残っていない。6弦ベースでバキバキいっているのはかっこよかったのに。かわいそう。
あとだな。
もう一つ感じたこととして、37さいのおっさんが夢中になるには、歌詞がいささか恥ずかしい。やっぱな。正直な。
元来僕はすごく恥ずかしがり屋であり、人がやっているものであっても恥ずかしいものは恥ずかしい。
でも英語ならそれっぽく聴こえる。それは僕があんまり英語を解していないからであり、もし僕が恥ずかしがり屋のネイティブの英語話者であれば、おんなじように感じていたかもしれない。
思い出すのがVan Halenの"アイスクリーム・マン"。あれって完全にアイスクリーム屋さんの歌です。が、かっこよいので聴いてしまう。
いろんなフレーバーを用意したぜ、俺が来たら立ち止まってくれよ、とか。意味はある。でも別に血湧き肉躍る感じのテーマではないし、特に37さいが耳を傾けるべき歌詞だとも思わない。そんな意味で、僕は雰囲気で音楽を聴いているところがある。
しかし、こうした羞恥心と、メタルキッズがベビメタ抱く嫌悪感とどこかで通じているような気がする。
仮にベビメタに「中身がない」と評うキッズがいたとしたら、彼は中身とはなんなのか知っていなくてはいけない。
もちろん知らない可能性もある。糸巻きでぐるぐると糸を巻いて、すっと糸巻きを抜く。宗教なんかでこんな形容がなされる。狂信的キッズのみなさまであれば、こんな風に崇拝している可能性も、もちろんある。
でももうひとつの場合もあるでしょう。彼は中身を知っていて、かつ差異化が不可能であると知っている場合。
テクニックだったり、筋力だったり、センスだったり。そうしたものが同等だったと知りながらも、その同質性を認めたくない場合。人は、深遠さを持ち出すかもしれない。これは感性の問題でもあるから、微妙な話になる。つづまるところ、当人が違うといえば、それは違うのだ。
胸ぐらを掴んで、ホラ、同じだろ、と強要するものではないからね。
こちらについては、特に付け加えるべきことはない。
それぞれスタイルにあった楽しみ方をすればいいのではないか。と前回同様、我々はクズグズの結論を導き出すことに、今回も成功したようだ。
一方で、僕の中に湧き上がる羞恥心もね、誰かさんに絶妙にコントロールされている気がするのだ。敢えて絶妙な下世話さやダサさを全面に出すことによって、「終わったジャンル」であるメタルを拾い上げ、キッズたちを苛立たせるハンドリング。
しかも、当の誰かさんではなくて、明らかに別世界の住人だった女の子がフロントに立つのだ。誰かさんは悪しきサタンであるかもしれないけれど、彼は僕やキッズたちのメンタリティを精緻に把握していることだ。
ふと思い出す。
中学生だったか、とにかくずっと昔のことなんだけれど、ハイスタが流行りました。Hi-Standardですよ。形容するなら日本人の英語で歌われるメロディックなパンク、なのかな。メロコア隆盛の綺羅星の一つに数えても良さそうな感じがします。
ロックに、ましてや洋楽に興味がない子の間にも、ふわっと流行った。まるで野火のように、風疹みたいに。そんな印象があります。
なんであんなに流行ったのか。理由はきっといろいろあると思いますが、ふつうの子がなんとなく耳にして、すごくかっこよかったんでしょう。僕もかっこいい、と思った。
あれは確かに、ギラリとした光でした。
かっこよいものは、掛け値なしにかっこよい。もし僕のうしろで聴いていた、推定5歳くらいの女の子がそういう風に感じているのだとしたら。
メタルだ、なんだ、という議論は、すごく後景に遠のくように感じられるのです。
でも僕はね、こうも思うんだ。
たぶんその幼き子は、悪しきサタンの傀儡たる毒親により、徐々に洗脳される過程であってだな。いずれ地獄の蓋が開き、サタンの住まう暗黒世界に差し出されるべき生贄としてのせry