2016年12月4日日曜日

インフル禍に思う

大好物はね、鶏のから揚げ。

実家の近くに養鶏場があったんです。のどかな時代の東京の、のどかな西の方の話なんですが。ちなみに、近くではぶたも飼われていた記憶があります。
平飼いというんでしょうか。鶏たちはかなり奔放に闊歩していて、時折脱走するんですね。それでうちに卵を産んだりして。目玉焼きにしてもらいました。





いやまったくひどいものです。150羽くらいの背後霊が。
鶏肉は好物なので、今後とも食べていきたいと考えています。
僕らは一円でもお安いお肉や卵があると飛びつく。そのお肉や卵がこんな風に生産されていたとは。知ってましたけど。実際に鶏舎に入るのは生まれて初めて。
人生、なにごとも経験といいますから。

防疫措置の実務がいかなるものであったか。それを書き記すと生々しくなりすぎる。
初めて知ったことといえば、消石灰の効能だろうか。インフルエンザはウイルスなので、殺菌というアプローチは意味を成さない。
消石灰により強アルカリ下に置くことにより、ウイルスを死滅させる。どうもそういう理路であるようだ。だからあんなにばらまくんですね。
そんなもんだから、作業後、キレイキレイで手を洗いながら、やや微妙な気持ちにもなった。もちろんその他のばい菌も当然いるだろうから、細菌による感染症予防対策としては意味があるんだろうけれど。

とまれ、一連の作業は、ある種の感銘を与えた。
臭気と労務。くりりとした目をしためんどりは、なかなか可愛らしかった。

経験は、その後の行動を変えるだろうか。
肉食をやめるか?・・・いや、やめない。鳥、うまいもん。
あるいは、食卓に上がるその日まで、ホスピタリティを味わってもらうか?・・・いや、それ肉高くなるでしょ。
斯様な具合で、僕は敢然と現状維持を選び取る。


小さなゲージにギウギウと住まうのはつらい。
そのくせ疫病が発生したからといって、一方的に処分というのもつらい。
人道的ではない。鶏道的でもないだろう。鶏の道はよく知らぬが、異論を挟む鶏も居まい。
もちろん予防的な措置が取られているだろうが、それにしたって疫病が発生する蓋然性はあったのだ。安価な肉の需要者として、僕のライフスタイルはそれに加担していた。鶏はといえば、流されるままだ。卵製造工場であり、お肉製造工場である。


そんなもんだから、とりにく好きの私とはいえ、鶏のQLを上げよう、と声を上がればうっかりと賛同しそうになる。繰り返すが、鶏はなかなかかわいいと思えたし、防護服を来た不吉な訪問者をみたその顔は、恐怖に怯えてい(るように見え)た。
なにか、おかしい。そう感じた。

考えてみて、やっぱりそれには乗れないと言ってみる

鶏がかわいそうだからなんとかしないといけない、というのはきっとモラリズムだろう。これを徹底的に純化させれば、僕は肉食をやめる日が来るのか。あるいは人工肉のみ食す人になるのか。それともいつまでも肉食をやめないダメな三級市民に成り下がるのか。

うまい食事は快い。求めていることはそれくらいだ。それが実はダメなことかもしれないと考えると、やや落ち込む。

鶏へのジェノサイドも、ベジタリアン化も引き受けていない、僕の「かわいそー」は、まったく甘いのだ。そういう手合いがモラリズムに耽ることは、もっとも僕が嫌悪することではなかったか。


今日は飲み会だ、となれば鶏がシメられ、食卓に上るとか。子犬はそれなりにかわいいけど、大きくなったら食べちゃうよ、みたいな風情だとか。
過程が見えることの健全さ。ベトナムにあって、日本にはないことであろう。