2016年10月22日土曜日

ひとは"やってしまう"生き物であって、


このことを聞いて、思い出したのは家庭科のテストだ。家庭科ってもうないんですか。
”やってしまった”という後悔を理解しない長谷川豊氏 石蔵文信

どんな設問だったか、詳細には憶えていない。スーパーで売られている身体に有害な食品添加物について。テストの最期にあるような、あなたの考えを書きなさい的なやつだ。
僕は、そんなのは見れば分かることだし、選ぶ選ばないは消費者の自己責任だ、というようなことを書いた。
先生は僕の回答に☓をつけて、コメントをつけた。食品添加物に関する知識がないなら、消費者は選べないでしょ、と。

僕は全然納得がいかなかった。知識というものは、道端にいくらでも転がっているものだ。添加物への知識がないのは、その人がその知識を選んでいないからに過ぎない。その責任はやっぱり消費者に帰すだろう。
こまっしゃくれた、かわいげのない子どもであったからして。



歳を取ると人間角が取れて、穏当になっていくからね。


長谷川さんの論理は明快だ。医療費が膨大になっている。そうした医療費の中には、不摂生の結果によるものも含まれる。こうした人は自己責任なのだから、多額の公金を費やすのは無駄だから削ってしまえ。そんなところだろう。
石蔵さんが応えているのは、削った分を付ける先はどれほどのものなのかということ。増加しているのは、医療費だけではなく、社会保障費もだ。節制を重ね、健康な人が長期間に渡り社会的な負担となるのは是なのか。お金の話でそうなっているのならば、やはりならべて議論されるべきではないか。
どきりとする内容ではあるけれど、石蔵さんは淡々と記す。そして最後に長谷川さんが「やってしまったこと」について触れる。この件で長谷川さんはずいぶんたくさん批判された。一方、石蔵さんの彼への眼差しは、暖かく穏やかだ。
批判的な記事もそうだし、長谷川さん自身の論の切れ味とは好対照に感じられる。


14歳くらいの僕だったら長谷川さんを熱烈支持していたのだろうか。そんなことを考えながら、一連の報道を眺めていた。
37歳の僕として、何か付け加えるべきことがあるだろうか、と。
敢えて14歳的僕を自己批判してみよう。


きみの思考は、いささか狭いかもしれない。
きみは自己責任を言い募ることで、利益を得るだろう。なぜなら、きみが(将来的に)支えなければいけない人の数が、いくらか減るかもしれない。そしてきみはたぶん、これから食品添加物に気をつけたものを選ぶようにするだろう。落とし穴に嵌まらないように。

そして、きみはいささか卑怯ですらあるかもしれない。
きみは絶対に落とし穴に嵌まらないと考えている。そして、落とし穴に落ちた人を批判する。安全な場所から、批判する。その振る舞いは、あんまり褒められたものではないと思う。

最後に、きみは将来落とし穴に嵌るだろう。
きみの信念や習慣は、きみが想像しているよりもはるかに不確かだ。前提とする社会的な知識も、きみが想像するよりも確固たるものではない。
添加物では落ちないかもしれない。でも別の何かで落ちるかもしれない。
落ちた時、きみは誰のせいにすればいいのか。そこはやっぱり、自分のせいだろう。


すべての人が、すべての陥穽をするりと抜けることができれば、いうことない。でも現実的にそれは不可能だ。すべての陥穽の数や種類を僕らは予見することはできない。人生とは原理的にそういうものだろう。
誰かをワン・イシューだけで、批判しないほうがいい。視野はなるべく広く。
そのことは、きみをいくぶんか無口にする。しかし、いつかきみを助ける。