そんなものも、確かにあるのだろうと思って。
師走、廃炉迫るもんじゅ 近くの集落には寒風に大根 朝日新聞 18.12.2016
こちらもなかなか感慨深く読みました。
ベトナム、日本の原発計画を白紙撤回 福島の事故で計画変更の結果… ハフィントンポスト 30.11.2016
個人的な経験を申せば、僕がベトナムにいるときにこの計画が発表されていて、在ベトナムボランティア間にも複雑な気持ちを持っている人がいた。3.11の後の話だ。
現在に続く、頑張っても頑張っても、なかなかおもらしが止まらないという惨状を全世界に公開しておきながら、どの面下げて原発輸出交渉ができるのか。
一人の日本人として、恥ずかしさを覚えた。
当時、ベトナムの副大臣の公演を聴く機会があって、ボランティアのひとりが副大臣に、原発の受け入れをやめて下さい、と述べた。その後に流していた涙も含め、強く印象に残っている。彼女の姿勢はとてもまっとうで、とても強い。
僕は後ろめたい気持ちになった。
僕には彼女のような強さはなかった。今も、ない。
僕は、この世界には本当の意味での悪人はいない、と信じている。厚かましくはあっても。同時に、誰もが彼女みたいに強くはないだろう。そう思う。
正しいとか、間違っているとか、そういうことは言わない。一人ひとりの良心に照らして、そんな仕事をするべきじゃない、とも言わない。面の皮が厚い、とはいおう。
彼の国では、コストの面で折り合わない、と判断したとされる。断る理由として、こちらの体面を尊重してくれたのではないか。
彼の地から、時間も場所もずいぶんと離れて、そんなことを思う。
敦賀市長「廃炉前提無いと信じる」 もんじゅ存続を求める姿勢崩さず 福井新聞 14.9.2016
もちろん、もんじゅ跡地が本当に人の住める更地に戻ると思っていまい。もんじゅとして運営を続けろ、といっている。
僕は、彼の気持ちが理解できるように思う。
迷惑施設は無いに越したことはない。雇用と税収はあるに越したことはない。ある時に、トレードオフを受忍した。その刹那、その場所が「ただの更地」に戻る可能性は、当座なくなった。大きな決断であっただろうが、済んだ話なのだ。
今さら、ただの更地になんて戻る目はないのだから、運転を続けろ、という。冒頭の地域住民の方の言も似ている。それが過去に選択はなされた。だからもう戻れない。そんな風に聴こえる。
普通に考えると、事故が起こりまくる炉に再び火を入れるのは不安なことだし、できれば避けたいはずだ。でも、地域住民は動かしてほしい、という。
まるで、焦土作戦みたいだ。どこか、心の均衡を欠いている。
しかし、彼らから見れば、きっと僕の方がよっぽど歪んでいるのだ。何も選択せず、何も引き受けていない人間ごときに、軽々と「今現在の」正論など、意見されたくもないだろう。
彼らは引き裂かれている。過去に為した決断の呪縛であり、代償なのだ。
その世界では、大上段の正論はなんの意味も持たない。
その言葉は彼らの心には届かない。そんなことはきっと、死ぬほど考えている。
一度掲げた旗を降ろすには、降ろすだけの経緯や手続きが必要なのだ。特に掲げることで、失われたものがある場合は。
正しさはたしかに僕らの拠りどころであり、美徳であろう。
しかしある地平では、正しさに優先する事柄があるのだと思う。
彼女はきっと、僕に失望するだろう。しかし強さを徹底的に欠いた僕には、そう思わざるをえないのだ。
師走、廃炉迫るもんじゅ 近くの集落には寒風に大根 朝日新聞 18.12.2016
「これまで散々国策に協力してきたのに、やめる時には一言も連絡がない。納得できん」。資源小国・日本の「夢」を背負い続けた集落をよそに、新たな「夢」が作り出される。ううむ。そうですね。
こちらもなかなか感慨深く読みました。
ベトナム、日本の原発計画を白紙撤回 福島の事故で計画変更の結果… ハフィントンポスト 30.11.2016
個人的な経験を申せば、僕がベトナムにいるときにこの計画が発表されていて、在ベトナムボランティア間にも複雑な気持ちを持っている人がいた。3.11の後の話だ。
現在に続く、頑張っても頑張っても、なかなかおもらしが止まらないという惨状を全世界に公開しておきながら、どの面下げて原発輸出交渉ができるのか。
一人の日本人として、恥ずかしさを覚えた。
当時、ベトナムの副大臣の公演を聴く機会があって、ボランティアのひとりが副大臣に、原発の受け入れをやめて下さい、と述べた。その後に流していた涙も含め、強く印象に残っている。彼女の姿勢はとてもまっとうで、とても強い。
僕は後ろめたい気持ちになった。
僕には彼女のような強さはなかった。今も、ない。
僕は、この世界には本当の意味での悪人はいない、と信じている。厚かましくはあっても。同時に、誰もが彼女みたいに強くはないだろう。そう思う。
正しいとか、間違っているとか、そういうことは言わない。一人ひとりの良心に照らして、そんな仕事をするべきじゃない、とも言わない。面の皮が厚い、とはいおう。
彼の国では、コストの面で折り合わない、と判断したとされる。断る理由として、こちらの体面を尊重してくれたのではないか。
彼の地から、時間も場所もずいぶんと離れて、そんなことを思う。
敦賀市長「廃炉前提無いと信じる」 もんじゅ存続を求める姿勢崩さず 福井新聞 14.9.2016
「廃炉にするなら、あす目が冷めたら更地になっているようにして欲しい」と語気を強め、成果が出ないままの”撤退”を強くけん制した。語られる言葉の強さに、僕は怯む。
もちろん、もんじゅ跡地が本当に人の住める更地に戻ると思っていまい。もんじゅとして運営を続けろ、といっている。
僕は、彼の気持ちが理解できるように思う。
迷惑施設は無いに越したことはない。雇用と税収はあるに越したことはない。ある時に、トレードオフを受忍した。その刹那、その場所が「ただの更地」に戻る可能性は、当座なくなった。大きな決断であっただろうが、済んだ話なのだ。
今さら、ただの更地になんて戻る目はないのだから、運転を続けろ、という。冒頭の地域住民の方の言も似ている。それが過去に選択はなされた。だからもう戻れない。そんな風に聴こえる。
普通に考えると、事故が起こりまくる炉に再び火を入れるのは不安なことだし、できれば避けたいはずだ。でも、地域住民は動かしてほしい、という。
まるで、焦土作戦みたいだ。どこか、心の均衡を欠いている。
しかし、彼らから見れば、きっと僕の方がよっぽど歪んでいるのだ。何も選択せず、何も引き受けていない人間ごときに、軽々と「今現在の」正論など、意見されたくもないだろう。
彼らは引き裂かれている。過去に為した決断の呪縛であり、代償なのだ。
その世界では、大上段の正論はなんの意味も持たない。
その言葉は彼らの心には届かない。そんなことはきっと、死ぬほど考えている。
一度掲げた旗を降ろすには、降ろすだけの経緯や手続きが必要なのだ。特に掲げることで、失われたものがある場合は。
正しさはたしかに僕らの拠りどころであり、美徳であろう。
しかしある地平では、正しさに優先する事柄があるのだと思う。
彼女はきっと、僕に失望するだろう。しかし強さを徹底的に欠いた僕には、そう思わざるをえないのだ。