そこからはずいぶんと遠く離れた。だから、いくぶん客観的になることができると思う。
僕のお題は、「地域住民の収益の向上」であった。
何をしたか。イニシャルコストを減らそうとした。中間収益を得られることを示した。
では、彼らの収益は向上したか。ノーだ。
なぜか。案を示しただけで、プラクティスは変わってないからだ。
なぜ、収益が上がるのが分かっている(個人的にはほぼ100%だった)のに、プラクティスが伴わなかったか。
そんな風にして、「ひとりなぜなぜ分析」は、続く。
話は変わって日本のはなし。
仕事のスピードは人によって違う。知識や技能からいって、他の人と違うわけでもないのに、仕事が山積みになり、毎日残業をしても追いまくられる人がいる。「あの人はいつも忙しそう」そんな人って身近にもいるだろう。
こういう人をみると、僕は「負けが込んでいる」ようにみえる。
負けが込んだ人は、手元に集中していて、前が向けない。だから、次の仕事が手前に来て、また手元に集中するのだ。僕も少なからず経験がある。
知識も実務経験も十分で、次に何が起こるか知っている。でも手元に抱えた急ぎの仕事があるから、前が向けない。疑問の根源は同じだ。なぜ、正解(もしくは悪手)だと分かっているのに、プラクティスが変わらないのか。
ずっと気にはなっていたんだけれども、ついにキンドルユーザーになりましたので、記念で購入。
例によってネタバレ成分が豊富に含まれていますが、一つ一つの実験・ケーススタディは示唆に富んでいて面白いので、それだけでも読む価値はあると思うでござるよ。
経済学者と行動心理学者の共著。そして和題だけみると誤解するけれど、本書は時間の話だけをしていない。さらにいえば、はうつー本ではない。ご用心。
洋第は、"Scarcity : Why Having Too Little Means So Much"。「欠乏」がテーマだ。
コロン以降は、はて、なんと訳せばよいか。なんでそんなたくさん仕事があるのに、わずかな手段しかもってないの?みたいな?
話を戻すと本書は欠乏がテーマ。
欠乏するのは時間だけではない。お金だって欠乏する。共通した結果は、アンハッピー。不安だし、機嫌が悪くなるし、人間関係や身体だって壊す。
本書の道具立ては、集中したときに対象外のものが見えなくなる「トンネリング」、ちょっとした余裕、という意味での「スラック」。
締め切りまでの時間の欠乏、期限を迎える返済金の欠乏。こうした欠乏に直面すると、人はその先のことを考えるのをやめる。とりあえず。
目の上のハエを追い払うのに集中して、次の締切や拵えた借金の返済日とかを考えなくなる。これがトンネリングだ。締め切り直前の集中力は普段よりも良くて、トンネリングは悪い面だけではない。もちろんデメリットはある。先の予定がおざなりになっているからだ。
僕らは確かに、締め切りや支払いに追われているように見えて、その実は欠乏にさらされている。急ぎ埋めなくてはいけない欠乏に対して、手持ちの資源が不足しているのだ。
トンネリングにより当座は凌げても、それでOKということではもちろんない。集中したツケが待っている。
次の仕事の締め切りは迫るし、糊口をしのぐためにやむを得ず拵えた別の借金の期限も来る。著者たちは、そのように次々と「締切」が近づくことをお手玉に例え、「ジャグリング」と呼ぶ。締め切りを放り投げてはまた手元に落ちてくる。それを必死で宙に投げ返す仕事。
実に概念的でスムーズな説明だけれど、「弥縫策はボロが出る」という誰でも知っていることだ。そうだそうだ。
でも、それでは終わらない。欠乏そのものから抜け出せていないから。
ここでもう一つの道具立てが出てくる。スラックだ。"Thrak"はあまりの、余剰の、という意味合い。
個人的にはThrakって聞くとキング・クリムゾンですか?と問い返さざるをえない。ロバート・フィリップ師考案のトリオ構成×2というダブルバンドは、たしかに余剰というよりも過剰だと言わざるをえない。
だがかっこいい。
高校生のときにこのビデオみました。
後半は完全に人力インダストリアルなメタル・クリムゾンであった。
話を戻す。
本書におけるスラックは過剰までなことはなくて、ちょっとした余剰とか蓄えとか、そういった程度の意味になる。たとえば、水曜午前中は予定を入れないだとか、貯金を作っておくとか、そうしたスラックを持っておくことで不意の欠乏に対応ができる。
こんな風に書いてしまうと、なんと当たり前のことか、と思う。僕がそう思うもの。
だが、当たり前だと思う僕自身も十分にスラックは作れない。頭では分かっていても、というやつだ。人はプラクティスを簡単には変えられない。
また、すでに欠乏にさらされている人は、うまくスラックが作れない。なぜか。
でもまあ、おっしゃるとおり。それは、そうなるだろう。
「今心配している場合ではない」から、プラクティスは変わらないのだ。
こんな風に、なんとなく知っていたり、経験しているものをエピソードを交えながら整理してくれるのが本書の特徴だ。
繰り返しになるのだけれど、はうつー本ではないので、こうしたらスラックが作れる、といった処方箋はない。ただ、ヒントはいくつか記載されている。
一つには、欠乏の前には豊かな時期がある。そして、たいていはその豊かさを食いつぶして欠乏に至る。当然、保険だとか貯蓄だとか、豊かな時期にスラックを作るような取り組みをしさえすれば、いい。
それも頭では分かっている類の話だ。小金ができると、すっと使ってしまう。時間ができると、だらだらとしてしまう。なんだかうまくいかない。これはもう、人間の悲しい性なのか。だから僕自身、ヒントは活かせていない。
ただ、考える視座にはなる。
僕はよくわからない。僕自身のプラクティスのどのあたりがどの程度ムダで、怠惰なのか。
また、それを指摘してもあんまり意味がないことも知っている。怒り出すか、そんなの知っているよ、と嘯くか。「他人に言われた」くらいで変わるプラクティスならば、とっくの昔に変わっている。
さらに、僕らがそれを欲していないわけでは、決して無い。時間の余裕を持って仕事はしたい。借金に怯えながら生活はしたくない。スーパーなことではなくて、人並みなこと。それが、できない。
習慣とは、それほど確固としたものなのだ。
なにをいまさら、と書きながら思う。
僕が自分の活動のなかで、彼らの中にプラクティスが作れなかったのだとしたら、どうしたら良かったか。プラクティスになるには、それに足るメリットがなくてはいけない。でも試してみなければメリットがわからない。
そういえば、僕は活動中に彼らに現金を見せてあげたいと思っていた。もちろん、その現金は僕にとっての成功でもある。
彼らの中に、成功でも残してあげられたなら。ほんの小さなものでもよかった。
でも、それが、できなかった。
率直に取り組む姿勢や、内容に何かしら問題があったのだ。
そんな風に考えると、僕は本当に彼らのことを考えていたのか、と思う。
無限に続く個人的反省会は常設展示状態なのだけれど、それはそれとして、僕がこれから楽しく生活をし、楽しく仕事をしていく上で、この辺のことについて考えていく必要があるのだろう。
これで「欠乏」とはおさらばだぜ、という明瞭な解はない。しかし、僕やあなたの周りで転がっている、よく知る問題であるし、少なくとも考える道具立てを手にする意味で、興味深い一冊でしたよ。
僕のお題は、「地域住民の収益の向上」であった。
何をしたか。イニシャルコストを減らそうとした。中間収益を得られることを示した。
では、彼らの収益は向上したか。ノーだ。
なぜか。案を示しただけで、プラクティスは変わってないからだ。
なぜ、収益が上がるのが分かっている(個人的にはほぼ100%だった)のに、プラクティスが伴わなかったか。
そんな風にして、「ひとりなぜなぜ分析」は、続く。
話は変わって日本のはなし。
仕事のスピードは人によって違う。知識や技能からいって、他の人と違うわけでもないのに、仕事が山積みになり、毎日残業をしても追いまくられる人がいる。「あの人はいつも忙しそう」そんな人って身近にもいるだろう。
こういう人をみると、僕は「負けが込んでいる」ようにみえる。
負けが込んだ人は、手元に集中していて、前が向けない。だから、次の仕事が手前に来て、また手元に集中するのだ。僕も少なからず経験がある。
知識も実務経験も十分で、次に何が起こるか知っている。でも手元に抱えた急ぎの仕事があるから、前が向けない。疑問の根源は同じだ。なぜ、正解(もしくは悪手)だと分かっているのに、プラクティスが変わらないのか。
早川書房 (2015-07-31)
売り上げランキング: 23,247
売り上げランキング: 23,247
ずっと気にはなっていたんだけれども、ついにキンドルユーザーになりましたので、記念で購入。
例によってネタバレ成分が豊富に含まれていますが、一つ一つの実験・ケーススタディは示唆に富んでいて面白いので、それだけでも読む価値はあると思うでござるよ。
経済学者と行動心理学者の共著。そして和題だけみると誤解するけれど、本書は時間の話だけをしていない。さらにいえば、はうつー本ではない。ご用心。
洋第は、"Scarcity : Why Having Too Little Means So Much"。「欠乏」がテーマだ。
コロン以降は、はて、なんと訳せばよいか。なんでそんなたくさん仕事があるのに、わずかな手段しかもってないの?みたいな?
話を戻すと本書は欠乏がテーマ。
欠乏するのは時間だけではない。お金だって欠乏する。共通した結果は、アンハッピー。不安だし、機嫌が悪くなるし、人間関係や身体だって壊す。
本書の道具立ては、集中したときに対象外のものが見えなくなる「トンネリング」、ちょっとした余裕、という意味での「スラック」。
締め切りまでの時間の欠乏、期限を迎える返済金の欠乏。こうした欠乏に直面すると、人はその先のことを考えるのをやめる。とりあえず。
目の上のハエを追い払うのに集中して、次の締切や拵えた借金の返済日とかを考えなくなる。これがトンネリングだ。締め切り直前の集中力は普段よりも良くて、トンネリングは悪い面だけではない。もちろんデメリットはある。先の予定がおざなりになっているからだ。
僕らは確かに、締め切りや支払いに追われているように見えて、その実は欠乏にさらされている。急ぎ埋めなくてはいけない欠乏に対して、手持ちの資源が不足しているのだ。
トンネリングにより当座は凌げても、それでOKということではもちろんない。集中したツケが待っている。
次の仕事の締め切りは迫るし、糊口をしのぐためにやむを得ず拵えた別の借金の期限も来る。著者たちは、そのように次々と「締切」が近づくことをお手玉に例え、「ジャグリング」と呼ぶ。締め切りを放り投げてはまた手元に落ちてくる。それを必死で宙に投げ返す仕事。
実に概念的でスムーズな説明だけれど、「弥縫策はボロが出る」という誰でも知っていることだ。そうだそうだ。
でも、それでは終わらない。欠乏そのものから抜け出せていないから。
ここでもう一つの道具立てが出てくる。スラックだ。"Thrak"はあまりの、余剰の、という意味合い。
個人的にはThrakって聞くとキング・クリムゾンですか?と問い返さざるをえない。ロバート・フィリップ師考案のトリオ構成×2というダブルバンドは、たしかに余剰というよりも過剰だと言わざるをえない。
だがかっこいい。
高校生のときにこのビデオみました。
後半は完全に人力インダストリアルなメタル・クリムゾンであった。
話を戻す。
本書におけるスラックは過剰までなことはなくて、ちょっとした余剰とか蓄えとか、そういった程度の意味になる。たとえば、水曜午前中は予定を入れないだとか、貯金を作っておくとか、そうしたスラックを持っておくことで不意の欠乏に対応ができる。
こんな風に書いてしまうと、なんと当たり前のことか、と思う。僕がそう思うもの。
だが、当たり前だと思う僕自身も十分にスラックは作れない。頭では分かっていても、というやつだ。人はプラクティスを簡単には変えられない。
また、すでに欠乏にさらされている人は、うまくスラックが作れない。なぜか。
今度の借金サイクルからどうやって出る?その代償は?その答えはもう分かっている。「それを今心配している場合ではない。そのような心配事は完全にトンネルの外だ。キンドルってさ、フォントサイズが変えられるからページが示せないんだよ。
でもまあ、おっしゃるとおり。それは、そうなるだろう。
「今心配している場合ではない」から、プラクティスは変わらないのだ。
こんな風に、なんとなく知っていたり、経験しているものをエピソードを交えながら整理してくれるのが本書の特徴だ。
繰り返しになるのだけれど、はうつー本ではないので、こうしたらスラックが作れる、といった処方箋はない。ただ、ヒントはいくつか記載されている。
一つには、欠乏の前には豊かな時期がある。そして、たいていはその豊かさを食いつぶして欠乏に至る。当然、保険だとか貯蓄だとか、豊かな時期にスラックを作るような取り組みをしさえすれば、いい。
それも頭では分かっている類の話だ。小金ができると、すっと使ってしまう。時間ができると、だらだらとしてしまう。なんだかうまくいかない。これはもう、人間の悲しい性なのか。だから僕自身、ヒントは活かせていない。
ただ、考える視座にはなる。
僕はよくわからない。僕自身のプラクティスのどのあたりがどの程度ムダで、怠惰なのか。
また、それを指摘してもあんまり意味がないことも知っている。怒り出すか、そんなの知っているよ、と嘯くか。「他人に言われた」くらいで変わるプラクティスならば、とっくの昔に変わっている。
さらに、僕らがそれを欲していないわけでは、決して無い。時間の余裕を持って仕事はしたい。借金に怯えながら生活はしたくない。スーパーなことではなくて、人並みなこと。それが、できない。
習慣とは、それほど確固としたものなのだ。
なにをいまさら、と書きながら思う。
僕が自分の活動のなかで、彼らの中にプラクティスが作れなかったのだとしたら、どうしたら良かったか。プラクティスになるには、それに足るメリットがなくてはいけない。でも試してみなければメリットがわからない。
そういえば、僕は活動中に彼らに現金を見せてあげたいと思っていた。もちろん、その現金は僕にとっての成功でもある。
彼らの中に、成功でも残してあげられたなら。ほんの小さなものでもよかった。
でも、それが、できなかった。
率直に取り組む姿勢や、内容に何かしら問題があったのだ。
そんな風に考えると、僕は本当に彼らのことを考えていたのか、と思う。
無限に続く個人的反省会は常設展示状態なのだけれど、それはそれとして、僕がこれから楽しく生活をし、楽しく仕事をしていく上で、この辺のことについて考えていく必要があるのだろう。
これで「欠乏」とはおさらばだぜ、という明瞭な解はない。しかし、僕やあなたの周りで転がっている、よく知る問題であるし、少なくとも考える道具立てを手にする意味で、興味深い一冊でしたよ。