2017年2月5日日曜日

かつて、我々の敵はグローバリゼーションであった。な。

ほんの数ヶ月前まで、日本のTPP批准に反対するひとはたくさんいたはずです。

僕の周りそういう意見を目にする機会が多かっただけなのか。農林業畑なので。関税が撤廃されたら、日本の農業がたちいかなくなる、と。
世論を割った議論だった、とまでは言えないかもしれないけれど、けっこう話題にはなっていたと思うのですよ。
それが、アメリカがTTPに反対したら、説得しなきゃ、という声ばかりがが耳に入るように。不思議に思うんです。快哉を叫ぶ人の声がなぜ聞こえないのか。僕だけか。
少なくとも、1年前くらい前の「もう片方の人」は喜んだっていいはずなのにな、と思うわけです。



学生の頃、僕らを取り巻く一つのテーマはグローバリゼーションであった。W.ブッシュの時代だ。古き良き時代、というほど昔の話ではない。たった15年前の話だ。

自由市場は、地域を破壊する。格差拡大を助長する。この流れを止めなくてはいけないと。これは、僕の周りだけの話ではなかったはずだ。アンチグローバリズム運動は確かにあった。シアトルにおけるWTO閣僚会議の反対デモだとか、印象に残ったいくつかの出来事がある。
かつて、W.ブッシュは、意に沿わない国を挙げて"悪の枢軸”とのたもうた。確かにまったく別の話ではある。あるのだけれども、そして本人としては不本意ではあるだろうけれど、彼は「彼に反する連帯」に足るだけの悪役を演じてしまった。何に対するアンチなのか、当時はまだ明確だったのだ。
うん、彼は確かに悪役顔だった。そして、そんな時代があった。

保護主義というと、「ブロック経済」みたいな大時代的な遺物を想起させるが、「アンチグローバリズム」というと15年前と地続きな感じがする。今も当時も与党は共和党なのだが。
そう考えると、今の状況はかつて僕らが望んでいた状況なのではないか。地域に雇用を取り戻そう。収入を増やそう。ぜんぜんおかしくはない。なのになぜ、皆が眉をひそめるのか。

眉をひそめる原因が、トランプという人の人格に帰すのであれば、そもそもグローバリゼーションには問題ではなかった、ということになるのか。
僕が彼に肩入れをする理由はない。移民の受け入れを制限したり、産業界に注文をつけたり、壁を作る(象徴的な行為だ)っていうのはアメリカらしくない。多くの人が心配しているようなことを、僕もまた心配している。


僕が修論を書いたときの問題意識は、グローバリゼーションの特性である「顔の見えない」市場にあった。
距離は関係なく、値段だけで消費者が選択することで、生産者側の生活や環境が損なわれるケースがあること。消費者側の地域経済が破壊されること。品質が担保できないこと。グローバルな巨大マーケットが一度損なわれた場合、代替が利かない。などなど。

15年。それからどんな風に世界が変わったか。
僕からすると、Amazon使いまくった。東京住まいから一挙に地方に住まうことになって、欲しいものが地元になかったから。だって、趣味のレコードショップ巡回もろくにできないし。すっかり市場経済に穢れちまったぜ。
僕みたいに通販で済ませる人が増えたこともあるだろう。音楽だって書籍だって動画だってネットで見れるように、商品の配信・流通の仕組みが洗練されただろう。その代わり、地方では書店やレコードショップみたいな日用品以外のお店はずいぶん消えたと思う。

15年前の心配は杞憂だったのか。
グローバリゼーションは確かに進んだ。寂れた商店街は順調に増えている。日用品が揃うのは商店街ではなくて、ショッピングモールになったのは15年よりももう少し前の話だ。


不可逆的な、致命的な悪いことが起きつつあるのかもしれない。そうは思うのだけれども、あまりピンとこない。もう少し統計的な事実やらを援用しながら考察すれば、愕然とする結果が見えるのかもしれない。面倒だから、印象でばかり話をしてしまう。

印象は人によって違う。それは踏まえておくとして、実感として15年前の僕らが想像していたよりもこの間の変化は、少なくとも最悪ではなかった。あるいは、単に慣れた。または、心配していたことすら忘れていた。

例えば15年前、シアトルのデモで問われたのはゲームのルールの妥当性であっただろう。来るべきルールが不公正だ、としたときにどうなるか。
一つには、ルールの紡ぎ直しであったし、他方では、現行ルールの中で打開策を見つけることであっただろう。そしてたぶん、その両方が取り組まれた。その過程で、「グローバリズム」も「アンチグローバリズム」も変質を余儀なくされたはずだ。(少なくとも僕にとっては)最悪ではなかった理由はそこにあるのかもしれない。
グローバリゼーションの話はまた別に考えてみたい。


ゲームメイカーになれる人は一握りで、その他大勢は与えられたルールを所与のものとしてやっていくしかない。ある意味で、この15年、スタイルは変えながらなかなかうまくやっているのだ、と評価したっていい。
そして、あるとき、元に戻す、という人が現れる。多くの人が彼のことを心配するのは、ルールの妥当性よりも「ゲームのルールが変わる」ことへの不安感ではないか。トランプという人に、多くの人が恐怖する理由は、ゲームチェンジャーが現れてしまったことなのではないか。


もう少しだけ推論の上に推論を重ねてみる。
ゲームチェンジャーが現れることに対する恐怖の理由は、今のルールが心地よいから、つまり勝っているからだろう。裏返すと、トランプを支持するのは負け続けている人だろう。トランプ自身が「勝者」なのはこの際、脇においておこう。
もし彼が、そうした「敗者の首領」であることを自覚していれば、「現行ルールの勝者」からの批判は全然効かないだろう。なんていっても彼は「ゲームチェンジャー」なのだから。
同時に、彼が敗れ去るとすれば、彼の作り出す新しいルールが「現行敗者」たちを救わなかったケースとなるのだろう。その意味で、大統領令を連発している現在の彼は、「現行敗者」たちに対して非常に忠実に行動をしているのだ。

ポイントはその成果。実施にうまくいったのか、ということになる。彼がこれから変えるルールで、現行敗者が勝者になるか。そこがきっと、トランプ政権最大の切所になる。ダメならトランプ自身がYou are fired,と言われるだけだ。

僕が気にかかるのは、現行敗者たちを救おうとしていたのはオバマだったことだ。彼はドローン・ボマーであったが、低所得者対策に取り組んでいた。それはいうまでもなく民主党的施策であった。共和党のトランプはもちろんオバマケアを撤廃した。
ここに、ねじれがある。
現行敗者たちは、トランプに賭けた未来がどうなるのか、僕よりもわかっていないんじゃねぇのか。そんな悪い予感がある。

いいやちがう。頭が悪いのは僕の方だ。と信じたいのだが。