2017年4月2日日曜日

書評:相模原障害者殺傷事件ー優生思想とヘイトクライムー

結果として、書評みたいななにかにはなった。


相模原障害者殺傷事件 ―優生思想とヘイトクライム―
立岩真也 杉田俊介
青土社
売り上げランキング: 9,317

対談本。
着眼点の違いが本書の醍醐味、か。


少し前にNHKで特設ページが作られた。
19のいのち ー障害者殺傷事件ー
単純に、被害者の方にはそれぞれの生活があったのだ。ごく単純なこの事実に気がつかされた。どんな人柄で、どんなものが好きだったか、など。
「青年」はそれらを捨象し、社会に不要な存在だと自らで決めた。それだけで彼を指弾する十分すぎる理由になるのだろう。お前が勝手に決めるな、と。



「青年」は割と普通の人なのではないか。彼は代替性の効く存在、彼は僕であったかもしれない。事件の報を聞いてそう思った。その意味で、杉田の云っていることは、僕が思ったことに近い。
僕が「彼」にならないために

もっとも、彼の方が僕よりも深刻に事態を捉えていて、社会的排除やヘイトが新たな段階に入ってしまったのではないか、と心配する。「障害者を殺せ」は「朝鮮人を殺せ」と地続きなのではないか、と。だから、この青年に対するあいまいなシンパシーを断固排除すべきだ。
一方で「あいまいなシンパシー」を、杉田自身も青年に対して感じている。だから、文章の中で苦悶し、逡巡する。


立岩は、相変わらず不思議な書き手だ。こんなに注釈が入る文章は、論文でもお目にかかれない。ふつう注釈は、人の云ったことを参照したり、詳述するために付ける。
立岩の場合「自身が既に書いたこと」の重複をさけるために、多くの注釈が付けられる。言うまでもなく、彼は既に多くのことを語っている。
人はいっときにすべての物語を語れない。語る時間も聞く時間もないから。だから仕方なく、一部を取り上げる。きっと彼は周到だから、この場で語ったことも全体の一部として、アーカイヴの中にそっしまい込むのだろう。

また、事件についても一歩引いた姿勢を貫いている。痛ましいことであるし、考えるべきことはあるし、いくらかは言うべきことも云っている。
しかし事件を分析したり、事件から解を導いたりはしない。かつてあった、似たような出来事を、虫干しのように日晒しする。
その過程で、読者たる僕は、どこかにしまい込まれていた出来事に初めて触れる。

そんな二人のスタンスの違いは、3部の対談を通じて現れている


繰り返しになるけれど、杉田の危機感は理解できる。
障害者を排除する理由が「生産性の低さ」にあるのだとしたら、障害のある無しに関係なく、生産性の低い人を排除しなくてはならない。「不正義」にあるのだとしたら、不正(と当人が思う)を為す人を排除しなくてはならない。

僕らは生産性や公正さを徳目のひとつに置く社会に生きている。だから、「青年」の到達した結論がいくら醜悪で、為したことがおぞましいことであったとしても、その過程そのものを強く責めることができない。
杉田は、そういった加害者への共感について、断固として反対しなくてはいけないという。なぜならば、そういった思いが社会を悪い方向に変えてしまう恐れがあるから。

だがそこに少し、飛躍があるように思う。本当にそんなことが可能なのだろうか?

ヘイトがジェノサイドと地続きである以上に、同じ価値観・徳目の社会で生活している僕と「青年」は様々な意味で地続きであるはずだ。
その意味で「断固たる反対」は、部分的であるにせよ、自らの否定ではないか。そして、そういうのは往々にして長続きしなかったり、ふわっとひっくり返ったりする。
たとえば、アメリカでポリティカル・コレクトネスが敗れ去ったように。ナチス禁止法があるドイツでネオナチがくすぶり続けているみたいに。


もうひとつ、心にかかることがある。
「青年」は人生に意味性を求め(すぎる)からこそ、おかしな結論を導き出し、おぞましい結末を迎えてしまった。杉田はそう指摘する。そういうところはあるとして、この結果に対して「人生に意味はない」と応じてよいか。
それで、彼が心配する将来は回避できるか。

宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』だとか『サイファ覚醒せよ』あたりを思い出している。
宮台は援交女子高生を最終兵器に見立てて「まったり生きる」ことを推奨した。そして、彼女たちがメンヘラ女子になってしまったり、熱心な読者が自殺してしまったりする。
人は無意味の無意味性に耐えられない(かもしれない)。
どことなく、相似形を描いているように思える。古くて新しい問題がここにある。

たいていの若者は、ほっといても人生の意味を探したり、自分探しに行ったりする。
不惑の年が迫る僕にしたって、人生の意味とは?と訊かれた日には考え込んでしまい、ついには昼寝をはじめるだろう。まったく手に余る。
そもそも大人たちは、必ずしも人生に意味を見出しているわけではない。なんとなく生きていくことはできる。仕事は忙しいかもしれないし、病気やケガでつらいこともある。楽しい旅行にいったり、酒を飲みながらテレビをみたりする。子どもが出来たり、孫ができたりする。
また、ある日死ぬ。
僕らはすでに細々とした心配を抱えながら生きている。人生の意味なんて考える前の話だ。

生きていく上での悩み事は限りなくあるし、その上、人生の意味なんて僕の手に余る。と云ったら、「青年」は納得するか。しないだろう。「青年」はこんな大人たちをみて「死んだような人生だ」と思うだろう。17歳の僕は間違いなくそう思う。

だから、僕はこの話題において、人生の意味とか、そういう話を一切したくない。
「青年」を説得する方法として、役に立たないからだ。



そこで輝くのは立岩の佇まいだ。
立岩の眼差しは(少なくとも一旦は)過去へ向く。杉田は将来を憂う。同じ事件を切り口に、二人は違う方向を見ている。
杉田が心配するように、だんだん社会は悪くなっているかもしれない。ヘイトがジェノサイドに転化してしまう社会が目の前に迫っているかもしれない。しかし、考えてみるとそうした「空気の変化」に対する手持ちの処方箋なんて、そもそもないのだ。


それよりも、我々は何を手にしてきて、何がまだ足りていないのか。具体的なものを指折り数えてみるべきなのだ。
それで犯罪を防げたかどうかも、嫌な空気が立ち籠めることを防げるのかもわからない。しかし少なくとも、「青年」の依って立った「事実」の間違いは指摘できる。

不安な時代であるほどに、そうした作業は大切なのではないか。
近視眼的で退嬰的。自分でもそう思うんだけど。