院生時代にロールズに私淑していたので、自称リベラリストであります。
「君はさ、ノンポリでふわふわしているけれど、急激に右旋回するようなヤツじゃない」というのが私に対する学部時代の教授評でありました。ちなみに「前衛」を購読している実に前衛的な研究室でのお話。
日々、いんたーねっつによって大量の情報がもたらされるわけですが、いささか食傷気味でもあります。以前はもう少しひとつひとつの記事を愛おしく読んでいた気がするのですが、最近は文字を追いはすれども読んでないのではないか、という有様。
ん。と思ったものを。
「リベラルという媚薬」を見抜く若者たち
なぜ「正義」はこぼれ落ちるものを同時に産むのか 田中俊英
それはそれとして、昨今のきな臭い情勢についてもリベラルのだんまりは指弾されてしまいます。
北朝鮮情勢の緊迫化について、左翼界隈が静かである件 山本一郎
僕だってね。政権交代した時は高揚感を持ったものですよ。
掲げられた理想は美しかったし、以前の政権はあまりにも醜かった。
同時に、そんな理想があっけなく潰えることも体感しました。
本邦のリベラリストたちがだんまりな理由のひとつにここもあるのだと思います。
冒頭の田中さんが、山本さんの揶揄を不思議な形で引き取ります。
私も労働組合員でもありますゆえ、機関紙など目を通す機会があるのだけれども、こういう時勢において、やはり視線のズレが気にならざるをえません。
朴訥とした平和主義を唱えるのはいい。では、有事において何を語るか。
語るべき言葉を、持たないのではないか。もしかして。
「こぼれ落ちたもの」に気が付かないか、気がついていないフリをしているのではないか。もしかして。
定見は、しばしば愚見である。愚見に見えるのは、僕の心がふらついているからか。
そんなことを考えていて。
どうも、僕が求めているのは、「戦争を起こさない方法」だとか、「誰もふるい落とさない絶対的な正義」とかではないみたいだ。ひとりの人として、身を処していく術だとか、その時々で思考停止に陥らないような所作、ではないか。姿勢、といってもいい。
むしろ、それこそいわゆるひとつの、定見というやつじゃないか。と、思うのだけれど。
もしこの国のリベラリズムがそれを提供できないのであれば、それはとても悲しいことだ。
そんなことを考えました。
別にコンサバティズムが人を救わない、というのではないし、そもそもそこに旗なんかいらねぇだろ、という話だってある。ただ、双方の考え方に沿った在り方・拮抗する在り方が見えるならば、少し考え方の幅が増えて、心強い、と思うのです。
後段、田中さんは大変愉快な活動をしていて、「スッキリ」している。いい話だと思う。一見関係のない作業にみえて、彼なりに「こぼれ落としたもの」を拾う作業なのだろう。
あらゆる緊張を脱臼させて、機能不全に陥らせたい、というのが僕の密かな欲望です。
尖ったものを、まぁるくてぼよよんとした、キッチュで正体不明ななにかに変えることができるなら。みんな気抜けして、仕方ねぇな、と笑ってくれるなら。
それが今のところの、僕なりの緊急回避であり、安全保障です。
手駒の不足と、僕自身の余裕の不足は、日々痛感しているところですが。
「君はさ、ノンポリでふわふわしているけれど、急激に右旋回するようなヤツじゃない」というのが私に対する学部時代の教授評でありました。ちなみに「前衛」を購読している実に前衛的な研究室でのお話。
日々、いんたーねっつによって大量の情報がもたらされるわけですが、いささか食傷気味でもあります。以前はもう少しひとつひとつの記事を愛おしく読んでいた気がするのですが、最近は文字を追いはすれども読んでないのではないか、という有様。
ん。と思ったものを。
「リベラルという媚薬」を見抜く若者たち
なぜ「正義」はこぼれ落ちるものを同時に産むのか 田中俊英
リベラルは、困った人々を助けようとする。そして、そのために必死になる。その指摘は的確ではないかと思います。
が、その必死さが何かを溢れ落とす。
それはそれとして、昨今のきな臭い情勢についてもリベラルのだんまりは指弾されてしまいます。
北朝鮮情勢の緊迫化について、左翼界隈が静かである件 山本一郎
引き続き北朝鮮が現状維持であるべきかや、平和を守るために日本がどのような活動をするべきかを本来であれば議論するべきところです。しかしながら、本当の危機が発生したときにアメリカだけでなく北朝鮮や中国の妄動も指摘して戦争をどうにかして回避する言論どころか、逆に静かになってしまうのは何故なのでしょうか。「中国は責任もって北朝鮮の冒険的軍事活動を控えさせろ」と中国大使館前でデモをする左翼活動家とか一人もいません。いちろう砲が、左翼陣営に着弾しています。
僕だってね。政権交代した時は高揚感を持ったものですよ。
掲げられた理想は美しかったし、以前の政権はあまりにも醜かった。
同時に、そんな理想があっけなく潰えることも体感しました。
本邦のリベラリストたちがだんまりな理由のひとつにここもあるのだと思います。
冒頭の田中さんが、山本さんの揶揄を不思議な形で引き取ります。
日本においては、理想的リベラリズム(戦争放棄と立憲君主制反対)が潜在的に支持されており、この2項目の存在感はいまだ大きい。また、メディアの思想も、理想的リベラリズムがまだ支配しているため、こうした理想主義に頷けない人々の声は潜在化していく。要はそういうことなのでしょう。
私も労働組合員でもありますゆえ、機関紙など目を通す機会があるのだけれども、こういう時勢において、やはり視線のズレが気にならざるをえません。
朴訥とした平和主義を唱えるのはいい。では、有事において何を語るか。
語るべき言葉を、持たないのではないか。もしかして。
「こぼれ落ちたもの」に気が付かないか、気がついていないフリをしているのではないか。もしかして。
定見は、しばしば愚見である。愚見に見えるのは、僕の心がふらついているからか。
そんなことを考えていて。
どうも、僕が求めているのは、「戦争を起こさない方法」だとか、「誰もふるい落とさない絶対的な正義」とかではないみたいだ。ひとりの人として、身を処していく術だとか、その時々で思考停止に陥らないような所作、ではないか。姿勢、といってもいい。
むしろ、それこそいわゆるひとつの、定見というやつじゃないか。と、思うのだけれど。
もしこの国のリベラリズムがそれを提供できないのであれば、それはとても悲しいことだ。
そんなことを考えました。
別にコンサバティズムが人を救わない、というのではないし、そもそもそこに旗なんかいらねぇだろ、という話だってある。ただ、双方の考え方に沿った在り方・拮抗する在り方が見えるならば、少し考え方の幅が増えて、心強い、と思うのです。
後段、田中さんは大変愉快な活動をしていて、「スッキリ」している。いい話だと思う。一見関係のない作業にみえて、彼なりに「こぼれ落としたもの」を拾う作業なのだろう。
あらゆる緊張を脱臼させて、機能不全に陥らせたい、というのが僕の密かな欲望です。
尖ったものを、まぁるくてぼよよんとした、キッチュで正体不明ななにかに変えることができるなら。みんな気抜けして、仕方ねぇな、と笑ってくれるなら。
それが今のところの、僕なりの緊急回避であり、安全保障です。
手駒の不足と、僕自身の余裕の不足は、日々痛感しているところですが。