2018年3月4日日曜日

姫と美女

またしても、少し遅い感想文。
オリンピックが終わり、今度はパラリンピックなわけですが、僕は野球が好きなのでオープン戦で色めきだってしまっています。

北の国から、姫と美女が来ていた。
いろいろな騒ぎがあって、今回のオリンピックが政治的だとか、そのあたりでも話題になった。
姫は美姫かもしれないし、美女はそれほど美女ではないかもしれない。でもそれは趣向の問題であって、ここでは話題にはしない。とにかく、姫と美女、とされる人、が来たのだ。
彼女たりの存在が、妙に気にかかる。
「姫」と「美女(たち)」がひとつづきの存在に思えなかった。



それりゃあね、僕と30センチも身長が違うショーヘイ・オータニが同じ日本人だなんて、他所の人から見れば無理筋に見える。だから微妙な話をしているのは、分かっている。

美女たちは姫と質的に異なっている。まあ、姫だから。しかし、姫と美女は同じように消費された。貪欲な我々の胃袋でもって消化された。

僕は、何がいいたいのか、自分でもよくわからない。なんだかもやもやとしている。たぶん、当たり前のことを確認したいだけだ。

姫にしろ、美女にしろ、いろんな思いがあって、いろんなことを考えているはずだ。

しかし彼女たちが到着したときには、個人としての彼女はさっぱりと捨象され、それぞれ「姫」と「美女」の記号だけになってしまった。
彼女たちは記号を背負って来た。僕たちはその記号だけを消費した。
彼女たちは「記号」の運び屋、ベクターであった。それだけが、彼女に課せられた役割であったといっていい。

それは、彼の国の体制だけの話ではなくて、僕らの胃袋の話でもある。
僕らは貪欲だ。オイシイものだけを食べる。
最初から「個人としての彼女たちの物語」を引き受けるつもりなどなかった。
結局はそういうことなのではないか。
違う言い方もある。
彼女たちが役割を引き受けなかったとしたら、その存在を知ることはなかった。

彼我の体制の違いはある。
検閲の隙間をかいくぐって語られた言葉は本当の言葉ではない、かもしれない。
たぶん、そうなのだろう。
そうだとしても、彼女たちの声に耳を傾けることができるのは、本当に僕らしかいなかったのではないか。

記号の受け渡しは、結局政治的な営みにすぎない。
少しだけでもそこから脱臼するようなにか。僅かなことでも、後に残る余韻だとか。

僕らができることは、いくらかはあるのではないだろうか。