2019年8月1日木曜日

考えすぎることをやめた

考えすぎる。
これがエントリーが減った公式の理由としたい。
かっこいいでしょ。ものぐさとおもわれないでしょ。
書き続けるのだ。それを不惑の誓いとしよう。




たまらなく自分の書き言葉の言い回しが嫌いになったのだ。鼻につく。
そして、いつも同じようなことしか書いていないような、どこにも行けないような、
気持ちになった。


同じことばっかり書くのは、当たり前なのだ。
ベトナム生活は刺激的だった。しかしそれは今や10年も前のことになる。
人生がずっとダイハードなら、毎日新鮮な何かに出会うだろうけれど、その前に死んでしまうだろう。
先週はロシアのスパイと戦い、今週は落ちてくる隕石を壊した、みたいな。
ずいぶん疲れそうだ。
そうでなくとも疲れているのだ。鍼灸院にも通っている。
毎週世界を救っている場合ではない。

ベトナムが終わってから、何を書いたか。
自分の過去を掘り起こし始めた。
怠惰な人間とは言え、40年も生きているから。
それなりにいろいろな経験をしたし、いろいろなことを考えた。

でも結論として、それはあんまり良いことではなかった。
思い出は、僕の記憶の中から、僕の思考様式に沿ってロードされる。
記憶を語ることは、僕のクセを含んだテーマであるということだ。
悪いことではない。ただ、倦んだ。飽きた。いやんなった。
この三連符もよく使う。そんなことを言っているとなにも書けなくなる。


自分の外側の文脈で。自分ではない文体で。ものを書きたくなった。
でも結局のところ、ものが書けなかった。
気持ち悪くなって、酒に酔って眠くなって、寝る。生産的ではないトライアル。

じゃあどうするのか。処方箋はない。まったくない。
一方、「書かないこと」に対する危機感がある。
害悪だとすら感じている。なぜか。
僕が「ただのおっさん」になってしまうからだ。

「ただのおっさん」はもちろん害悪ではない。
全国数千万の「ただのおっさん」諸兄にまったく失礼な言動である。
そして、「ただのおっさん」たちはほんとうのところ、ただのおっさんではない。
お腹が出てきたり、頭髪の後退や脇汗を気にしたりしつつ、各人の美意識を持ち合わせているはずなのだ。

どこまでいっても僕はただのおっさんだ。
しかし、同時に自分の特別さをあきらめてはいけない。
そんな風に思う。そうしたときに。
僕は、僕としては、どこまでも言葉を紡いでいこう。
それくらいしかできないから。

まずは書くことだ。
それがどんなひどい文章であったとしても。