2019年8月12日月曜日

エラーを起こすプログラムへの対処


なんてタイトルにしたんだけど、SE諸氏の助けには全くならないです。
紛らわしくてごめんなさい。

プログラムのデバッグではなくて、プログラムからの撤退と外部化かもしれない。
特に、ヒトのプログラミングにおいては。



このごろ事故が多いじゃないですか。
前進と後進を間違えただとか、アクセルとブレーキを間違えただとか。

うちのほんの近所でも事故があった。
まったく他人事ではない。ちょっとした間違いなんて、いくらでもやりそうなものだ。
これはもう、問いの立て方が反対だと思うんだ。
「なぜ事故が起きるのか」ではなく、「なぜあんまり事故が起きないのか」、だ。 
それくらい、みなさんの「そつのなさ」は奇跡的です。
褒めてます。讃えています。大地讃頌です。
しかし、ここに不思議がある。どうしてみなさんはきちんと行動できるのですか?

通いなれた道は、道順や目印なんかを考える必要がなくなる。
行程は自動化される。オートクルーズコントロール。

きちんと行動できることとは、行動にあたって考える余地をなくすことだ。
技術士の試験で、回答を考えなくても書けるように、自然と手が動くように、と言われた。
キーワードの洗い出し、解答の要素と構成、原稿用紙3枚を埋める時間配分。受験生たる僕は、そこに気を配る。個別の回答で頭を使っている時間はない。
そんなわけで、並行していくつもの事柄を処理する場合は、「考えなくてもよいこと」を少しでも増やしておいたほうがいい。

アクセルとブレーキの操作。カーブに合わせて細かく切られるハンドル。
ドライバーはそんなことを意識しない。人力オートクルーズ。
僕らは、訓練を経て作業を自動化する。
運転は、操作法を理解し、習熟し、自らと一体化した技術/プログラムと言える。
結果、しばらくの間、特に意識することなく勝手に作業を行うことができる。

しばらくの間。

いつしか人は、
情報の入手が遅くなる。素早い操作がで難しくなる。操作を誤る。
それは、限りある命あるものの限界のような気がする。

僕らは簡単に陳腐化したハードウェアを換装したり、システムを更新できない。
だから、時間をかけて内在化したシステムは、エラーが宿命づけられていると言える。
それは、僕らが限りある存在であることと深く関わる。

間違えないヒトなんていない。
よくある慰め言葉みたいだ。どんまい、みたいな。


人はエラーを起こすことが宿命づけられている。
エラーには大小あるけれども、人の命は被害者・加害者双方にとって致命的で取り返しがつかない。
どんまい、では済まない事柄がある。
事故の多くは誰か過失によるものだろう。でも過失は、エラーを起こした側が意図していなかったことを意味する。故意であるならば、それはエラーではなくなる。
あたりまえな話なんだけれども、エラーは誰も望んでいない。
誰だって被害者はもちろん、加害者になんて絶対になりたくない。

しかしエラーを犯したら、そこに責任が発生する。間違った責任だ。
加害者の責任。ひとまずは。
でもそれでは足りない。
日本の免許制度は、老化に対応した制度設計はされていない。講習みたいな配慮はあるけれどね。システム上、人生最期のドライブまで、往年の判断力と反応で対応できることが前提となる。
早い話、誰もが簡単に加害者になれる。
パフォーマンスが落ちてゆく責任は、ドライバーにあるのか。
全て等しく朽ちていく、限りある存在であるのに。


日本は史上最も、高齢者に溢れているはずで、かつてないほど賢人がひしめく国だ。実際に生活していて、そんな風にあまり思えないのは秘密だ。
あと、賢人たちによるアクセルとブレーキの踏み間違いも、最もたくさん起こっているはずだ。また、賢人の操る自動車も史上最多であるはずだ。 
エラーを起こすリスクが高い自動車は、たぶん昔よりもたくさん走っている。
検証はしていない。でも昨今の事故の多さは、そう解していいだろう。


そもそも、この話は賢人だけの問題ではない。
運転が苦手であったり、できればしたくない人、さらには、ただ目的地に行きたくて、運転しか手段がない人、感情が運転に影響を及ぼす人。
これは、相当数のドライバーが当てはまるのではないか。
だとすれば。

エラーが取り返しがつかない破綻であるプログラムは、定期的に換装とか更新がなされる外部に任せたい。
さまざま考え合わせるとそう思う。
人は熟練を自分のものにできないのか、とか、人間性からの撤退だとか言われそう。
でも、そんなことはない。


その人のパーソナリティと不可分である処理。
たとえば、話すこと、書くこと(好きであれば)、料理をすること(好きであれば)、運転すること(好きであれば)は本人が行う。
一方、社会的な生を送る上で必要なことだけれども、別にしたくないことや、することによって、別のリスクを惹起する可能性があることは、外部に委託すれば、といっているだけだ。
僕はメガネをしている。裸眼だとほとんど見えない。けれど、目を細めれば少し見える。目が悪い人はよく、そんな仕草をする。
顔をしかめて目を細め続けていれば、ひとまずは見えるとしよう。でも、そんなことをしているんだったらメガネをかけたほうが楽だ。

同時に、そのことは必ずしも先進の技術が必要であることを意味しない。みんながオートクルーズコントロールの車を買うわけにはいかない(近い将来、標準装備になっている可能性は高そうだ)。
車を処分して、バスに乗り換えた人は、さまざま事情や不満はあれど、移動に関わる処理を外部化した、と考えることができる。
もちろん、できない人がいて、そこが問題になっていた。うちの周りも山村で、車が必須、という場所も少なくない。街づくりや交通機関など、車に乗らなくて済むサービスを考えてあげればいい。


定期的に、あまりに頻繁に起こる悲劇を少しでも減らしていくために。
できることはなんなのだろう。