2023年5月7日日曜日

細部が体を成す、のかしら

自分の書くことが嫌いになったことを思い出した。

以前も書いた。でもまた書いちゃう。

どんな風に嫌いかっていうのは難しい。たぶん自己嫌悪に近い感じなのだと思う。

書きぐせみたいなものも嫌いになった。僕の中の傲慢さというか、社会をナメた感情が言葉の端々からにじみ出ているているように思われた。

自己嫌悪ほど「いてもたってもいられない」ことはないかもしれない。自分の子どもの振る舞いを見ていてそう思う。そのことに直面させたのは僕なんだけれども、彼女はとても苦しいのはとてもよくわかる。

でも、やったことに対する禊ぎみたいなものは必要だと思う。父としても、僕としても。その上で、かつて自分の書いた言葉、そのいくつかは本当に最低だなと思った。

あと、僕は主題を中心に据えることができない。どうでもいい部分の寄せ集めで、どうにか形を作る。本当は主題をしっかり描いて、そこに肉付けするような文章が僕は書きたい。今でも書きたい。何度か試みたけれども、うまく描けなかった。

きらいきらい、で掘り崩したら何も書けない人間になっていた。


一方、ここ数年の仕事的にはかつてないほど文章を書いた時間帯でもあった。私人としての僕が苦手としていた、主題を軸をした文章も書いた。必要に迫られていたからなんですけどね。だから、ワープロとしての僕は、パブリックとプライベートの間で何らかのバランスを取っていたのかもしれない。怠け者になったというのは脇に置いておくとして。

仕事の作文は何かしら僕を鍛えた。はずだ。

作った言葉は、無数に直されキレイに漂白され、もはや僕の言葉ではないものになる。僕の署名が入るものでもないからそれは別にいい。叩かれ台は作ったから、後は勝手に直してくれと思っていたものだ。なんだかあんまり健全ではない。でも、「実用的な」文書とはたぶんそういうものだ。


じゃあ、実用性から離れて、どういう文書が書きたいのか。そこはあいかわらず不明瞭だ。

書き出しの時に、僕の中に主題らしきものはない場合がほとんどだ。何かひっかかるエピソードがあって、ひとまずそれを描写する。なぜ引っかかったのか、モニターの前で考える。そうすると、同じようなエピソードが思い出されたりして、最初は意図していない主題が浮かび上がる。客観的に振り返ると、それが僕の書き方であったと思う。

少し自己嫌悪と格闘しつつ、書き方を思い出す作業が必要だ。

もちろん、もう少し慎重に。僕は昔ほどバカではなくなっているはずだから。