尊厳死法案は昨年国会に提出されるやらなんとか報道された。どうなったのかよくわからない。政権交代で潰れたのか。話題になったのは事実で、下は中日新聞の特集。
http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2013012902000140.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2013020502000143.html
不正受給は言うに及ばず。4年前のエントリーだけれど、なかなか今日的だったので。
当時は麻生さんが首相だったんだなぁ、と。
なお、mixi社におかれましてはいつ畳んで頂いても結構です。どうもお世話になりました。
2009.2.1
『良い死』立岩真也, 筑摩書房, 2008年
ひさびさの立岩先生の単著、と思ったら三部作の一作目とのこと。 いつもどおり、最後まで読まないと肯定しているのか否定しているのか分からない文章。 前回はALSを扱ってたが今回は尊厳死がテーマ。
繰り返しになることを恐れないこと。 思考停止に陥らないようにすること。これがくねくねとした、まだろっこしい文体の理由、なのか?
くねくねしているんだけれど、たまにすごい切れ味を発揮する不思議。刺さる。
2009.3.8
① 疑問
(家ではなく病院で死を迎える人が増えてきて)「死が人の前から遠ざかっている、人が死と直面する必要がある」とよく云われる。 しかし実際には、医療技術の進歩により「死ぬ前」の時間は長くなった。人は「かつてないほど死と直面して」いる。
そして、こう懐疑する。
「生きているある状態をもうやめてよいと判断するという価値の問題であり、価値の問題であるしかない。事実のように語る言葉にあなたの価値が滲み入ってしまうのではないか」 (p61)
② 「今の私と将来の私」の同一性、「今の私」の利得
今日の私が、明日の私を決めてしまう、もっといえば、今の私が(想像するに耐えない)私の消去を決定する、ということについて。
「実際に認知症になった私は、そんなことをかつて決めたことをもう忘れているかもしれない。自らが知らない決定によって自らは死ぬことになる。このようなことが、私のことだから私が決められるという理由によって正当化されうるものなのか。…他人によって決められていると言ってよいぐらいではないか。」 (p193)
事前指示(事前に尊厳死を行うことを承諾すること、不測の事態において実施を指示すること)について。
「あなたがどうするかは知らないが、私はもうよいと言う。その人たちは死を掛け金にして、現在の自らを肯定しようとしている。」
「まずは態度を示すこと自体から利得を得ている。だから、自らを証明することに高い価値を置く人にとっては、これは安い買い物だと言えるかもしれない。」 (p112)
なんだか経済学の割引率の議論を思わせる。でもありそう。暴力的に要約すると、尊厳死します、と宣言することは、ええかっこしい。ヒロイックであることが今ここにある「私」には利益であると。
③ 与しない
立岩は尊厳死法制化に反対する。理由は「死にたくないひとが死んでしまう」から。詳細は本書、もしくは「弱くある自由」を参照。
わざわざ法制化する必要はない。現状がそうだ。死にたい人は生き難いから、つらいから死んでしまう。ならば生き難い状態をよりましな状態にするように努力するほうが先だろう、というのが立岩の考え方。
必要なことは、死を簡単にチョイスできるようにすることではなく、そのような気持ちになってしまう社会状況や技術的状況の改善が先決。ベンチレーターはメガネと一緒、というのはいささか強い言い方だけど。確かにメガネなかったら僕は死んでしまう。
尊厳死はその人の意思だから、他人のことは関係ない、のではない。
「自分がそういう人にならないために、その手前で自分の身体・生命を無くして、自らを救出しようとしているのではないか。それはその人たちを害していることではないか。」(p117)
同じく暴力的に要約すると、尊厳死をしたい人はええかっこしい上に勝ち逃げしようとしている、その態度は他の人を傷つける、と言っている。ような気がする。
2009.7.5
④ 介護と負担
「「国民負担率」-国民所得に対する租税負担と社会保障負担の割合―が持ち出され、その上昇が危惧される。それでは大変だ、だからその率を一定以下にした方がよいと言った議論があり実際にそのようにことが運ぶ。しかし、…それはたんなる間違いであることが分かる。」 (p262)
理由は下記。
1.総量は変わらない。
家庭内で供給される介護労働を社会保障に置き換えることを立岩は念頭においている。一年間の介護にかかる負担総量は一定である(高齢化の進行とともに増える)。だから国民負担率は上がる。でも総量は変わらない。配分の内容が変わるのに過ぎない。
2.負担は増えるがサービスも増える。
あたりまえ。
負担率を下げるという行為は家内労働による介護を増やしましょう、担い手がいない場合はガマンしましょう、と言っているのに等しい。介護保険制度の画期的だった点は介護労働を金銭化し給付したことだ。シャドウ・ワークというか、不可視的(「見える化」という言葉は嫌い)になされていた仕事に光が当たったわけだ。
国民負担率をシーリングするのは、シーリングからこぼれた仕事を再びシャドウ・ワーク化する、ということだ。財務ベースでは妥当な結論なのかもしれないけれど、それでいいのか。
国民負担率は高齢化とともに上昇する。でもサービスは増えていく。担い手は誰か?介護士などの人たちだろう。サービスの対価は彼らが受け取る。財務的観点からいえばちゃんとGDPは増える。大部分が人件費だから、公共事業なんかよりもずっと確からしい。
おじいちゃんおばあちゃんをデイサービスに預けて、おかあさんはヘルパーの仕事に出る、というケースもあるかもしれない。おじいちゃんの介護をおかあさんがすることになってもちゃんと対価が支払われなくてはいけない。それはインモラルだろうか?
カネカネうるさいな、心とか気持ちはどうした、と思う向きもあるだろうけれど、実際多くのケースで負担として認識されているわけで。
結局、今あるのは「配分をめぐる争い」で、そんなものでしかないという立岩。配分の仕方によっては負担が軽くなる人もいるし、重たくなる人もいる。
関連して立岩、こんなことも言っている。
「「不正受給」を咎める側は、自らも時に同じ平面にいて、取り分をめぐって対立していることを忘れてしまっていることがある。」(p287)
うむ。なんでおれがてめーにはらわにゃならんのだ、という言は実は今の配分方式でその人がトクをしている、もしくは上の構図を忘れてしまっている証左、なのかも。
まあたしかに、思うときもあるんだけど。