「人の声を聞く学問」が「人文学」で、「水の声を聞く学問」が「水文学」です。
と、講義開始一発目に教授会心のドヤ顔を見せつけられた記憶。森林水文学の授業だ。「みずぶんがく」ってなんぞ?という腐れ学生だった。あ、正しくは「すいもんがく」といいます。
この伝で行くと「天文学」は「天の声を聞く」ということになってしまい、ロマンチックというよりもはやそれはシャーマンです。
ということで。
来越したオヤジに貰いました。
林学系の書籍はずいぶん久しぶりに手に取りました。
著者は東大演習林に所属をされている先生。「すいもんがく」がご専門のようです。なので本書は水収支を着眼点とした森林の現状や研究成果の紹介から始まる。とはいってもそんなに難しくない。あまり詳しくない方から、結構知ってるよという方まで幅広く読めると。
実際の水文学は数式やら物理的な知識やらがわんさか出てきて、当方は挫折→林経に逃亡。いや、林学ってほんとに幅が広いですね(にっこり)。
あ、この先生、協力隊経験もあるそうですよ、お客様。
そんな水文学的な話題から始まって、ほぼ森林・林業をめぐる課題を総ざらいしてしまえるぐらい射程の広い一冊でした。平易かつ丁寧な筆致の中に深い経験が伺える。
こういう書き方ってできないなぁと思って素直に関心。僕なら性格が悪いのでたぶんもう少し剣呑な物言いに。
以下、関心を持ったことをいくつか。
森林の持つ「作用」のあり方について。一般に森林は多用な「機能」があるとされていて、日本学術会議でも森林の「機能」という言葉が使われている。水源かん養「機能」など。しかし「機能」という言葉の使い方に著者は疑問を呈する。たくさんの「作用」の中で人間が使えるものを「機能」と呼んでいるに過ぎないと。森林の作用の中には良い面も悪い面もある。それを再定義した上で話は進められている。
そして水源かん養「作用」をめぐる脱ダム宣言→脱脱ダム宣言等々にも話が及ぶ。この種の議論はどこか政治的な色合いを帯びる。でもそれは単に「作用」でしかないと考えるならば、是々非々で話をするしかない。つまり、森林の作用は今後も一定程度、「機能」として僕らの前に表れるだろうし、「森林は万能」だと課題な期待 /負荷をかける必要もない。この切り分け方は有用だなと。
森林やダムに関するゴタゴタの理由の中にはコストに関する要素や感情的な要素もある。それに加えて、「科学とイメージの解離」という部分もあるのではないか。
なぜ学校で化学式まで使って光合成を学んだり、蒸散について学んだあとに顕微鏡で気孔まで覗いておきながら、大人になったらあっさり森林が水を作る魔法を持ってる風な考え方をしてしまうか、とか。別にマイナスイオンでも放射能 /放射脳でもEM菌の話でもいいでしょうけれど。
ものごとを判断するには一定の科学に基づくリテラシーは必要でしょう?
我々は手にした道具をもう少し使うべきです。
林学という学問は明治年間にドイツから輸入された学問である。と習った。魔物(別に妖怪でも妖精でもロビン・フットでもなんでもいいけど)が跋扈した森林は分割され、解析された。
自然や森林にスピリチュアリティを持ち込むのはいい。ただ、それを安易に政策に持ち込むのはマズイ。徹底的に「磨かれ」るべきだ。学校で習ったことを捨てるということは、自らが寄って立つ根拠を捨てることに近いと僕は思うんです。
新しい何かに取り替えてしまってもいいけれど、「代わりのもの」の多くには一般性がない。たぶんね。
マックス・ウェーバーの「脱魔術化」と「再魔術化」を地で行く話かもしれんね。
EM菌騒動は結局、学校の先生や教育委員会がなんとも思わずにお金を出し、総合学習の時間を使い、さらに新聞がそれに乗っかるという、極上のエンターテイメントケーススタディを提供してしまった。どうもごちそうさまでした。
これ、リテラシーを考える上でとってもいい事例だと思うんです。いやほんとに。学校で習ったことは、その後のものさしになる。あるいは、せんせも間違う。とかね。
そもそも森林は絵画や写真で見るほどそんなにやさしくない。寒いし暑いしヤブだしヘビいるしヒルいるし蚊はいるしハチいるしクマいるし時折崖から落ちる。学科で最初の現地実習が「実習」という名の草刈り(と鎌研ぎ)だった僕がいうのだから間違いない。
イメージと実際は、けっこう違うぜ。
個人的に共感したのは森林の所有に関するくだり。激しい同意による引用。
「 日本は、森の取り扱いにおいて、土地の所有者が絶対的に近い権限をもっているため、土地所有者への経済的なインセンティブを用意するか、または強制的に罰則をともなう規制や義務を課すような制度設計をしない限り、土地所有者は動こうとはせず、どんなに素晴らしいスキームを作っても運用できない可能性が高くなることが最大の問題です。 p151」
著者はこのようになってしまった原因をヨーロッパから土地所有制度を輸入した際の欠陥であると指摘する。つまり、所有権のみが輸入され、その責務については輸入されなかったということ。
なにも付け加えるべきことはない。書いてくれてありがとう蔵治さん。よく存じあげないけれど。その辺の個人的な苦労話については「森林を所有するということ」で書いた。
その他、国立大の先生なのに森林環境税をバッサリいってたりして、これはなかなか、ふははは、こやつめ、的痛快な部分もありました。
森林・環境関係の本ってすごくたくさん出ているけれど、おかしな本もいっぱいある。記述に偏りがないよう注意が行き届いていて、その辺にも好感を持ちました。
現在の森林・林業を概観するためにも、考え方のコンパスとしても良い本だと思います。
1,500円の雨合羽でヤブを漕ぐ人も、mont-bellのゴアテックスを着て遊歩道を歩く人も、農道をセルシオでぶっ飛ばしてる人も、コートを羽織って都会の雑踏を往く人にも。
あ、父上、いつもお世話になってます。どうもありがとうございました。
と、講義開始一発目に教授会心のドヤ顔を見せつけられた記憶。森林水文学の授業だ。「みずぶんがく」ってなんぞ?という腐れ学生だった。あ、正しくは「すいもんがく」といいます。
この伝で行くと「天文学」は「天の声を聞く」ということになってしまい、ロマンチックというよりもはやそれはシャーマンです。
ということで。
蔵治 光一郎
化学同人
売り上げランキング: 138,268
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来越したオヤジに貰いました。
林学系の書籍はずいぶん久しぶりに手に取りました。
著者は東大演習林に所属をされている先生。「すいもんがく」がご専門のようです。なので本書は水収支を着眼点とした森林の現状や研究成果の紹介から始まる。とはいってもそんなに難しくない。あまり詳しくない方から、結構知ってるよという方まで幅広く読めると。
実際の水文学は数式やら物理的な知識やらがわんさか出てきて、当方は挫折→林経に逃亡。いや、林学ってほんとに幅が広いですね(にっこり)。
あ、この先生、協力隊経験もあるそうですよ、お客様。
そんな水文学的な話題から始まって、ほぼ森林・林業をめぐる課題を総ざらいしてしまえるぐらい射程の広い一冊でした。平易かつ丁寧な筆致の中に深い経験が伺える。
こういう書き方ってできないなぁと思って素直に関心。僕なら性格が悪いのでたぶんもう少し剣呑な物言いに。
以下、関心を持ったことをいくつか。
森林の持つ「作用」のあり方について。一般に森林は多用な「機能」があるとされていて、日本学術会議でも森林の「機能」という言葉が使われている。水源かん養「機能」など。しかし「機能」という言葉の使い方に著者は疑問を呈する。たくさんの「作用」の中で人間が使えるものを「機能」と呼んでいるに過ぎないと。森林の作用の中には良い面も悪い面もある。それを再定義した上で話は進められている。
そして水源かん養「作用」をめぐる脱ダム宣言→脱脱ダム宣言等々にも話が及ぶ。この種の議論はどこか政治的な色合いを帯びる。でもそれは単に「作用」でしかないと考えるならば、是々非々で話をするしかない。つまり、森林の作用は今後も一定程度、「機能」として僕らの前に表れるだろうし、「森林は万能」だと課題な期待 /負荷をかける必要もない。この切り分け方は有用だなと。
森林やダムに関するゴタゴタの理由の中にはコストに関する要素や感情的な要素もある。それに加えて、「科学とイメージの解離」という部分もあるのではないか。
なぜ学校で化学式まで使って光合成を学んだり、蒸散について学んだあとに顕微鏡で気孔まで覗いておきながら、大人になったらあっさり森林が水を作る魔法を持ってる風な考え方をしてしまうか、とか。別にマイナスイオンでも放射能 /放射脳でもEM菌の話でもいいでしょうけれど。
ものごとを判断するには一定の科学に基づくリテラシーは必要でしょう?
我々は手にした道具をもう少し使うべきです。
林学という学問は明治年間にドイツから輸入された学問である。と習った。魔物(別に妖怪でも妖精でもロビン・フットでもなんでもいいけど)が跋扈した森林は分割され、解析された。
自然や森林にスピリチュアリティを持ち込むのはいい。ただ、それを安易に政策に持ち込むのはマズイ。徹底的に「磨かれ」るべきだ。学校で習ったことを捨てるということは、自らが寄って立つ根拠を捨てることに近いと僕は思うんです。
新しい何かに取り替えてしまってもいいけれど、「代わりのもの」の多くには一般性がない。たぶんね。
マックス・ウェーバーの「脱魔術化」と「再魔術化」を地で行く話かもしれんね。
EM菌騒動は結局、学校の先生や教育委員会がなんとも思わずにお金を出し、総合学習の時間を使い、さらに新聞がそれに乗っかるという、
これ、リテラシーを考える上でとってもいい事例だと思うんです。いやほんとに。学校で習ったことは、その後のものさしになる。あるいは、せんせも間違う。とかね。
そもそも森林は絵画や写真で見るほどそんなにやさしくない。寒いし暑いしヤブだしヘビいるしヒルいるし蚊はいるしハチいるしクマいるし時折崖から落ちる。学科で最初の現地実習が「実習」という名の草刈り(と鎌研ぎ)だった僕がいうのだから間違いない。
イメージと実際は、けっこう違うぜ。
個人的に共感したのは森林の所有に関するくだり。激しい同意による引用。
「 日本は、森の取り扱いにおいて、土地の所有者が絶対的に近い権限をもっているため、土地所有者への経済的なインセンティブを用意するか、または強制的に罰則をともなう規制や義務を課すような制度設計をしない限り、土地所有者は動こうとはせず、どんなに素晴らしいスキームを作っても運用できない可能性が高くなることが最大の問題です。 p151」
著者はこのようになってしまった原因をヨーロッパから土地所有制度を輸入した際の欠陥であると指摘する。つまり、所有権のみが輸入され、その責務については輸入されなかったということ。
なにも付け加えるべきことはない。書いてくれてありがとう蔵治さん。よく存じあげないけれど。その辺の個人的な苦労話については「森林を所有するということ」で書いた。
その他、国立大の先生なのに森林環境税をバッサリいってたりして、これはなかなか、ふははは、こやつめ、的痛快な部分もありました。
森林・環境関係の本ってすごくたくさん出ているけれど、おかしな本もいっぱいある。記述に偏りがないよう注意が行き届いていて、その辺にも好感を持ちました。
現在の森林・林業を概観するためにも、考え方のコンパスとしても良い本だと思います。
1,500円の雨合羽でヤブを漕ぐ人も、mont-bellのゴアテックスを着て遊歩道を歩く人も、農道をセルシオでぶっ飛ばしてる人も、コートを羽織って都会の雑踏を往く人にも。
あ、父上、いつもお世話になってます。どうもありがとうございました。