季節的には予算要求シーズンなんですけれど、暦通り三連休を取得。こんなに余裕をぶっこいていてよいのかどうか。
またしてもお高い本を購入してしまったんです。書店で見かけて思わずニヤリとしてから、レジに持って行ってしまいました。3,400円なり。
ニヤリとした理由はタイトル。このタイトルは枕歌がありまして、アルド・レオポルドの『野生の歌がきこえる』です。
1949年に発刊されたこの本は、環境倫理学の嚆矢といっても差し支えない書籍で、レオポルド先生の高名は学生だったころ、しょっちゅう耳にしてました。読んだことねぇんだけどな。あれだ、ゼミで誰か扱ってたんだ。
共有地論・コモンズ論につながる「土地倫理」という概念が案出されたのがこの本。
したがいまして今回は、こいつを枕歌に、渋すぎる歌枕を読んだ奴がいるということです。
でもさ。そもそも『野生の歌が聞こえる』の原題は"A Sand County Almanac"なんだってさ。調べて初めて知った。どう訳せばいいかな。「乾いた大地の"満引き"」とか?
面白いタイトルだけれどちょっと詩的というか、抽象的。だから邦訳版では「野生のうた」とかわけわからんタイトルになったのかな。
翻って、今回読んだ『オーケストラ』の原題は"The Great Animal Orchestra"なので、まんまです。僕はどうやら気を利かせた訳者にハメられたようですどうもありがとうございました。
今回は貴様のとんちに負けてやったぜ。
実際面白かったし「うたが聞こえる」と分野や関心はよく重なっている。と思う。読んだことないんだけど。
アメリカの環境保護や国立公園問題、シエラクラブなども扱っているので、ニヤリとしたひとは迷わずレジに持って行きなさい。3,400円握りしめて。
あ、税別だからな。もうちょっと持ってけ。
さて、著者のバーニーさんとはどんなひとか。
まずはギタリストであって、次いでテレビ番組の音楽を担当したひと(「奥さまは魔女」とか!)であり、さらには自然の音を収集してまわるひとになったおじいちゃんである。後に教鞭をとっていたようだけれど、平たく言えばセッション・ミュージシャン/サウンドエンジニアだったんですね。この人は。
まずは彼のキャリアの自叙伝と読んでもいいのかもしれない。ギタリストからシンセサイザーとの出会い、スタジオにこもっていた時代から野外録音への転出など、人生というのはまったく潮ですね、となかなか興味深く読める。
そして、彼が様々な場所に赴き、録音した自然の音について語られる。
バーニーさんは録音したものを波形分析にかける。プロですからね。縦軸に音高(周波数)分布、横軸に時間を取ったグラフを作る。スペクトログラムというのかな、こういうの。
豊かな森で録られた音は、様々な音高にいろいろな音が入っている。虫の声、カエルの声、木々のざわめき、鳥の声などなど。高いパートから低いパートまで様々な出演者がいて、ほぼグラフ全体をうめつくすように音が入っている。
打ち出されたスペクトログラムを睨んで、こりゃあまるでオーケストラのようじゃあないか!バーニーさんはそう思ったんでしょうね。プロだけに。で、このタイトル。
このグラフ、彼はサウンドスケープ(音風景と訳せばいいんだろうか)と呼んでいて、実際ちょっとおもしろい代物です。
例えばコオロギが鳴いたりやんだりする。もちろん集団で鳴く。それを楽器のパートと置き換えるわけですね。鳥が鳴く。「音楽」の中に、ソロイストが出現する。まるでヴァイオリン。徐々に変化していくのなんて、ミニマル・ミュージックみたい。
職業柄、山にはよく入りますが、音を聴いてそんな風に考えたことなかったなぁ。
本書にはひとつギミックが入っていて、みすず書房のサイトを通じてバーニーさんが集めた様々な場所のオーケストラが聴くことができる。本に載っているサウンドスケープを眺めながら実際に音を確認することができる。こりゃちょっとすごい。
サンプルレート不明ながら、けっこうな情報量な気がする。定位感も迫力もすごい。ゾウのぶおおおお、という鳴き声でうちのウーファーが震撼してました。たぶん彼は感動したんだと思う。
PCじゃなくて、スピーカー、もしくはヘッドフォンで聴くんだぜ、とのこと。
ちなみにここでサンプルも聴ける。
www.thegreatanimalorchestra.com
あら。英語版の方が丁装が素敵じゃない。
そしてなんとほんとにシンフォニーがつくられたらしい。すげぇ。
この短い動画、サウンドスケープってどんなものが視覚的に表現されていて、とってもよく出来ている。レコードになっているのかな。聴いてみたい。
鳥とか虫は一定のインターバルをもって鳴く、だから間隔がある。バーニーさんいわく、動物が鳴くのには理由があって、少なくとも同種同士の間では目立たなくてはいけない。だから他種とは干渉しないように鳴く。それは音高/周波数であり、インターバルである。
だから、多様な自然のサウンドスケープは音高、インターバルともほぼ間断なくさまざまな「パート」によって埋め尽くされる。豊かなサウンドスケープのスペクトログラムは抽象画のようだ。音をグラフにすることで「多様性」の一つの形が示されている。
これは偉大な仕事だと思うんだ。大絶賛。
彼の面白いところは、同じ森林の択伐前と択伐後で録音し、サウンドスケープを作っていること。ここで林業的注釈。択伐とは「選んで伐る」ことで間伐とほぼ同義です。
択伐後のサウンドスケープを聴くと、前よりもちょっと音が小さめかな?くらいなのに、スペクトログラムは如実に変わる。パート数と音量の減少。すかすか。フルオーケストラが室内楽カルテットみたいになってしまったかのように、密度の低いスペクトログラムが描かれる。
林業関係者的にぐぬぬぬぬ、と思いました。抜き切りですら影響が出てしまうのか。
あるいはノイズの問題。どんな静かなところにいっても飛行機は飛んでいる。上空を飛行機が通過することによって、文字通り鳴りを潜め、通過後しばらくしてから徐々に回復する。ジェット機のエンジンの爆音に加え、エンジンノイズが様々な音高をもっているからなのだろうか。
こんな風に、バーニーは人為的にサウンドスケープが破壊されていると云う。森林伐採などの文字どおり破壊、そして人間によって撒き散らされるノイズによる破壊。豊かな自然では当然のように備えていた豊かなサウンドスケープが破壊されている、と。
一方で彼は、ミュージシャンであり(カントリーバンドのギタリストとしてキャリアをスタートさせた)、アメリカで流行してきた様々なジャンルの音楽について触れるくだりがある。彼の国の音楽が、よりハードなもの、エキセントリックなものを追求した経緯が描かれている。メタルやインダストリアルミュージックについても理解を示していて、満足しました。個人的に。
インダストリアルミュージックとは?こんな感じ。
うっひゃ。うるせー。
むしろこれを人力でやっていることを多としてあげたい。
タイトルはその名も"Indutrialist"。動画中に差し込まれるイメージも工業的でいい感じです。好きなんですけどね。ずっと聴くのは疲れるけど。
Fear Factoryはインダストリアル・メタルの草分け。マシーンみたいなバスドラとふとっちょおやじの7弦ギターのリフのシンクロがあなたを極上カタルシスへ導くことでしょう。昔渋谷AXで見た。土木工事現場かと思いました。
まあ、こんな音楽もあるし、実際アメリカの都市では1996年から2005年の間に12%もノイズレベルが上昇したなどという事実もあるという。
今どきどこのメーカーのヘッドフォンでもフラッグシップはノイズキャンセリングがついている。耳にやさしいということもあるんだけれど、外音が大きくなっているという話もあったりするのかもしれない。つまり、我々がノイズに囲まれており、それは年々強まってきている、と。
うむ。掛け値なしに、彼の仕事は尊いと思いますよ。
それは大前提として、ちょっとひっかかる。
原生林のサウンドスケープがすばらしいとして、我々は簡単に触れることができるか。アフリカか南米にでも行くか、本書を買ってヘッドフォンで聴くか。いずれにしても難しい。
つまり、原生にこだわり過ぎではないか、と。そんな風に思う。
バーニーの云うように、「原初の記憶」として原生の音が僕らのDNAに刻まれているのであれば、僕らは原生林に赴かなくてはいけない。ただこう、この国の世間を見渡すと原生林の話をしている人はそれほどいない。「田舎暮らし」とかいうとせいぜい里山あたりの話をしている。そもそも身近に原生自然がないからか。ヨーロッパだってほとんどないでしょ。
すばらしいもの・誰もが必要なものであれば、誰もが熱帯のジャングルに飛んだほうがいいはずだ。でもジャングルに入った日本人は、歴史的に見てもそれほどたくさん居ないだろう。終生日本にいた日本人がほとんどだと思うし、DNA的に原生自然を欲した人を僕は知らない。
冒頭で挙げた土地倫理や、国立公園制度、ウィルダネス概念などなど、倫理学・哲学関係でアメリカから直輸入できない考え方が多いのは、アメリカのむやみやたらな「原生礼賛」がネックなのだと思う。あくまで個人の見解ですが。
かつて、膨大なワイルド・フロンティアをもっていたこと。あっという間に消尽してしまったこと。「原生」というキーワードに関して、アメリカ的なバイアスを感じるんです。
バーニーさんはアメリカ人だからしょうがないけれど。
原生自然のサウンドスケープは手がかりの宝庫であると彼は云う。太古の歴史・地球の歴史についての手がかり。これが失われつつある。
そして、ノイズに囲まれた現代人のストレスの大きさ。ノイズで人は集中力をなくし、時には病気になってしまう。だからノイズの少ない場所に行き、その豊かさに触れるべきだとも。意訳しすぎか。
僕はヘイトスピーチ反対の立場を取りながらも、軽い生物多様性ヘイトであります。それなりに本も読んだつもりだけど「カネになるから」と「かわいそうだから」くらいしか理由が見いだせなくて。あるいは精神性。「人と自然との一体感」というやつ。
だからアメリカから輸入される環境倫理学・哲学系の考え方はヨガとか、スピリチュアルなものがしばしば含まれる。これも彼の国の考え方が簡単に適用できない理由のひとつだと思う。
「人は自然に還るべき」という、どこかパターナリスティックなメタ・メッセージが気になると、そんなこと言われるまでもなく、こちとら八百万の神さまが張り付いてんだよ、草木どころかトイレにすらおわすぞ。誰がウチラのバックについてるか知ってんのかてめぇ、という気分になりますよね。
サウンドスケープも含めて、自然には経済には還元されない価値がある。そうかもしれない。自然の中にいるとひとのストレスが減るかもしれない。そうかもしれない。
それはそれとして、という話。
林学ってね、「森林風致学」という講座があるんです。「風致」って意味分かんないでしょ。横文字にするとアメニティです。「なんとない感じの良さ」。森林は生産の場でもあるけれど、憩いの場でもあります。だからこういう講座があるんでしょう。斜陽講座なので絶滅したかも知れませんが。
ところが日常生活で風致が前衛に出る場面はほとんどありません。今後もないでしょうね。「感じの良さ」は計量できないから。もしくは比較考量した場合「補完的/追加的」な要素だから。
風致をもっとも色濃く表現可能なのは私邸のお庭でしょう。あるいは京都などの史跡。景観条例って多くの都市で制定されてますが、開発を禁止するようなヘビーなものってほとんどない。開発を強く規制するような法制度が整備されている場所は、その場所の自然や風致に対するコンセンサスがすでに取れているとみて良いと思います。
風致は先には来なくて、あとからついてくるもの。僕はそう思うんです。
本書にはバーニーさんが国立公園でサウンドスケープのプログラムを実施するにあたって悪戦苦闘しているくだりもある。スノーモービルといったスポーツ・アクティビティや日本以上にばんばん飛び交う飛行機の利用者・関係団体ともろに利害が衝突する。そんな話。
事実からは当為は導けない。哲学の基本の「き」らしいですよ。「〜だ」から、「〜べき」とは言えない。
サウンドスケープをめぐるバーニーさんの仕事は充分科学的だし、事実だと思う。ただ、事実をもって当為を補強しようという意図がこっそり含まれてもいる。この種のちょっとした背理というか、押し付けがましさが、僕を居心地悪くさせる。
内容豊かで鮮やかな前半部から、なんだかどうも説教臭い後半部へ。これが残念。おじいちゃんだから仕方ないけども。インダストリアルを知っているおじいちゃんはロックンロールでかっこいいけれども。
そんなことで、内容としては面白いし、実際に僕がうろうろしている林で音を録ったらどうなるかなぁ、というのも面白そうだなと思いました。なによりサウンドスケープは新しい生物多様性のものさしになりそうで、今後使い勝手が出てくるかも。
キライだけど便利なものは便利みたいな節操のない二枚腰な性根が僕の強みです。
こういうのは知っておくに越したことはないから。
それはそうと、本書を読みながらずっと念頭に置いていていたのは高木正勝さんの新譜のことでした。「原生」を知らない、かわいそうな日本の民草としては、だ。
これは、サウンドスケープ的文脈において、けっこう凄いレコードかもしれない。
そんなことを次は書こうかと思っています。
またしてもお高い本を購入してしまったんです。書店で見かけて思わずニヤリとしてから、レジに持って行ってしまいました。3,400円なり。
バーニー・クラウス
みすず書房
売り上げランキング: 451,864
みすず書房
売り上げランキング: 451,864
ニヤリとした理由はタイトル。このタイトルは枕歌がありまして、アルド・レオポルドの『野生の歌がきこえる』です。
アルド・レオポルド
講談社
売り上げランキング: 187,257
講談社
売り上げランキング: 187,257
1949年に発刊されたこの本は、環境倫理学の嚆矢といっても差し支えない書籍で、レオポルド先生の高名は学生だったころ、しょっちゅう耳にしてました。読んだことねぇんだけどな。あれだ、ゼミで誰か扱ってたんだ。
共有地論・コモンズ論につながる「土地倫理」という概念が案出されたのがこの本。
したがいまして今回は、こいつを枕歌に、渋すぎる歌枕を読んだ奴がいるということです。
でもさ。そもそも『野生の歌が聞こえる』の原題は"A Sand County Almanac"なんだってさ。調べて初めて知った。どう訳せばいいかな。「乾いた大地の"満引き"」とか?
面白いタイトルだけれどちょっと詩的というか、抽象的。だから邦訳版では「野生のうた」とかわけわからんタイトルになったのかな。
翻って、今回読んだ『オーケストラ』の原題は"The Great Animal Orchestra"なので、まんまです。僕はどうやら気を利かせた訳者にハメられたようですどうもありがとうございました。
今回は貴様のとんちに負けてやったぜ。
実際面白かったし「うたが聞こえる」と分野や関心はよく重なっている。と思う。読んだことないんだけど。
アメリカの環境保護や国立公園問題、シエラクラブなども扱っているので、ニヤリとしたひとは迷わずレジに持って行きなさい。3,400円握りしめて。
あ、税別だからな。もうちょっと持ってけ。
さて、著者のバーニーさんとはどんなひとか。
まずはギタリストであって、次いでテレビ番組の音楽を担当したひと(「奥さまは魔女」とか!)であり、さらには自然の音を収集してまわるひとになったおじいちゃんである。後に教鞭をとっていたようだけれど、平たく言えばセッション・ミュージシャン/サウンドエンジニアだったんですね。この人は。
まずは彼のキャリアの自叙伝と読んでもいいのかもしれない。ギタリストからシンセサイザーとの出会い、スタジオにこもっていた時代から野外録音への転出など、人生というのはまったく潮ですね、となかなか興味深く読める。
そして、彼が様々な場所に赴き、録音した自然の音について語られる。
バーニーさんは録音したものを波形分析にかける。プロですからね。縦軸に音高(周波数)分布、横軸に時間を取ったグラフを作る。スペクトログラムというのかな、こういうの。
豊かな森で録られた音は、様々な音高にいろいろな音が入っている。虫の声、カエルの声、木々のざわめき、鳥の声などなど。高いパートから低いパートまで様々な出演者がいて、ほぼグラフ全体をうめつくすように音が入っている。
打ち出されたスペクトログラムを睨んで、こりゃあまるでオーケストラのようじゃあないか!バーニーさんはそう思ったんでしょうね。プロだけに。で、このタイトル。
このグラフ、彼はサウンドスケープ(音風景と訳せばいいんだろうか)と呼んでいて、実際ちょっとおもしろい代物です。
例えばコオロギが鳴いたりやんだりする。もちろん集団で鳴く。それを楽器のパートと置き換えるわけですね。鳥が鳴く。「音楽」の中に、ソロイストが出現する。まるでヴァイオリン。徐々に変化していくのなんて、ミニマル・ミュージックみたい。
職業柄、山にはよく入りますが、音を聴いてそんな風に考えたことなかったなぁ。
本書にはひとつギミックが入っていて、みすず書房のサイトを通じてバーニーさんが集めた様々な場所のオーケストラが聴くことができる。本に載っているサウンドスケープを眺めながら実際に音を確認することができる。こりゃちょっとすごい。
サンプルレート不明ながら、けっこうな情報量な気がする。定位感も迫力もすごい。ゾウのぶおおおお、という鳴き声でうちのウーファーが震撼してました。たぶん彼は感動したんだと思う。
PCじゃなくて、スピーカー、もしくはヘッドフォンで聴くんだぜ、とのこと。
ちなみにここでサンプルも聴ける。
www.thegreatanimalorchestra.com
あら。英語版の方が丁装が素敵じゃない。
そしてなんとほんとにシンフォニーがつくられたらしい。すげぇ。
この短い動画、サウンドスケープってどんなものが視覚的に表現されていて、とってもよく出来ている。レコードになっているのかな。聴いてみたい。
鳥とか虫は一定のインターバルをもって鳴く、だから間隔がある。バーニーさんいわく、動物が鳴くのには理由があって、少なくとも同種同士の間では目立たなくてはいけない。だから他種とは干渉しないように鳴く。それは音高/周波数であり、インターバルである。
だから、多様な自然のサウンドスケープは音高、インターバルともほぼ間断なくさまざまな「パート」によって埋め尽くされる。豊かなサウンドスケープのスペクトログラムは抽象画のようだ。音をグラフにすることで「多様性」の一つの形が示されている。
これは偉大な仕事だと思うんだ。大絶賛。
彼の面白いところは、同じ森林の択伐前と択伐後で録音し、サウンドスケープを作っていること。ここで林業的注釈。択伐とは「選んで伐る」ことで間伐とほぼ同義です。
択伐後のサウンドスケープを聴くと、前よりもちょっと音が小さめかな?くらいなのに、スペクトログラムは如実に変わる。パート数と音量の減少。すかすか。フルオーケストラが室内楽カルテットみたいになってしまったかのように、密度の低いスペクトログラムが描かれる。
林業関係者的にぐぬぬぬぬ、と思いました。抜き切りですら影響が出てしまうのか。
あるいはノイズの問題。どんな静かなところにいっても飛行機は飛んでいる。上空を飛行機が通過することによって、文字通り鳴りを潜め、通過後しばらくしてから徐々に回復する。ジェット機のエンジンの爆音に加え、エンジンノイズが様々な音高をもっているからなのだろうか。
こんな風に、バーニーは人為的にサウンドスケープが破壊されていると云う。森林伐採などの文字どおり破壊、そして人間によって撒き散らされるノイズによる破壊。豊かな自然では当然のように備えていた豊かなサウンドスケープが破壊されている、と。
一方で彼は、ミュージシャンであり(カントリーバンドのギタリストとしてキャリアをスタートさせた)、アメリカで流行してきた様々なジャンルの音楽について触れるくだりがある。彼の国の音楽が、よりハードなもの、エキセントリックなものを追求した経緯が描かれている。メタルやインダストリアルミュージックについても理解を示していて、満足しました。個人的に。
インダストリアルミュージックとは?こんな感じ。
うっひゃ。うるせー。
むしろこれを人力でやっていることを多としてあげたい。
タイトルはその名も"Indutrialist"。動画中に差し込まれるイメージも工業的でいい感じです。好きなんですけどね。ずっと聴くのは疲れるけど。
Fear Factoryはインダストリアル・メタルの草分け。マシーンみたいなバスドラとふとっちょおやじの7弦ギターのリフのシンクロがあなたを極上カタルシスへ導くことでしょう。昔渋谷AXで見た。土木工事現場かと思いました。
まあ、こんな音楽もあるし、実際アメリカの都市では1996年から2005年の間に12%もノイズレベルが上昇したなどという事実もあるという。
今どきどこのメーカーのヘッドフォンでもフラッグシップはノイズキャンセリングがついている。耳にやさしいということもあるんだけれど、外音が大きくなっているという話もあったりするのかもしれない。つまり、我々がノイズに囲まれており、それは年々強まってきている、と。
うむ。掛け値なしに、彼の仕事は尊いと思いますよ。
それは大前提として、ちょっとひっかかる。
原生林のサウンドスケープがすばらしいとして、我々は簡単に触れることができるか。アフリカか南米にでも行くか、本書を買ってヘッドフォンで聴くか。いずれにしても難しい。
つまり、原生にこだわり過ぎではないか、と。そんな風に思う。
バーニーの云うように、「原初の記憶」として原生の音が僕らのDNAに刻まれているのであれば、僕らは原生林に赴かなくてはいけない。ただこう、この国の世間を見渡すと原生林の話をしている人はそれほどいない。「田舎暮らし」とかいうとせいぜい里山あたりの話をしている。そもそも身近に原生自然がないからか。ヨーロッパだってほとんどないでしょ。
すばらしいもの・誰もが必要なものであれば、誰もが熱帯のジャングルに飛んだほうがいいはずだ。でもジャングルに入った日本人は、歴史的に見てもそれほどたくさん居ないだろう。終生日本にいた日本人がほとんどだと思うし、DNA的に原生自然を欲した人を僕は知らない。
冒頭で挙げた土地倫理や、国立公園制度、ウィルダネス概念などなど、倫理学・哲学関係でアメリカから直輸入できない考え方が多いのは、アメリカのむやみやたらな「原生礼賛」がネックなのだと思う。あくまで個人の見解ですが。
かつて、膨大なワイルド・フロンティアをもっていたこと。あっという間に消尽してしまったこと。「原生」というキーワードに関して、アメリカ的なバイアスを感じるんです。
バーニーさんはアメリカ人だからしょうがないけれど。
原生自然のサウンドスケープは手がかりの宝庫であると彼は云う。太古の歴史・地球の歴史についての手がかり。これが失われつつある。
そして、ノイズに囲まれた現代人のストレスの大きさ。ノイズで人は集中力をなくし、時には病気になってしまう。だからノイズの少ない場所に行き、その豊かさに触れるべきだとも。意訳しすぎか。
僕はヘイトスピーチ反対の立場を取りながらも、軽い生物多様性ヘイトであります。それなりに本も読んだつもりだけど「カネになるから」と「かわいそうだから」くらいしか理由が見いだせなくて。あるいは精神性。「人と自然との一体感」というやつ。
だからアメリカから輸入される環境倫理学・哲学系の考え方はヨガとか、スピリチュアルなものがしばしば含まれる。これも彼の国の考え方が簡単に適用できない理由のひとつだと思う。
「人は自然に還るべき」という、どこかパターナリスティックなメタ・メッセージが気になると、そんなこと言われるまでもなく、こちとら八百万の神さまが張り付いてんだよ、草木どころかトイレにすらおわすぞ。誰がウチラのバックについてるか知ってんのかてめぇ、という気分になりますよね。
サウンドスケープも含めて、自然には経済には還元されない価値がある。そうかもしれない。自然の中にいるとひとのストレスが減るかもしれない。そうかもしれない。
それはそれとして、という話。
林学ってね、「森林風致学」という講座があるんです。「風致」って意味分かんないでしょ。横文字にするとアメニティです。「なんとない感じの良さ」。森林は生産の場でもあるけれど、憩いの場でもあります。だからこういう講座があるんでしょう。斜陽講座なので絶滅したかも知れませんが。
ところが日常生活で風致が前衛に出る場面はほとんどありません。今後もないでしょうね。「感じの良さ」は計量できないから。もしくは比較考量した場合「補完的/追加的」な要素だから。
風致をもっとも色濃く表現可能なのは私邸のお庭でしょう。あるいは京都などの史跡。景観条例って多くの都市で制定されてますが、開発を禁止するようなヘビーなものってほとんどない。開発を強く規制するような法制度が整備されている場所は、その場所の自然や風致に対するコンセンサスがすでに取れているとみて良いと思います。
風致は先には来なくて、あとからついてくるもの。僕はそう思うんです。
本書にはバーニーさんが国立公園でサウンドスケープのプログラムを実施するにあたって悪戦苦闘しているくだりもある。スノーモービルといったスポーツ・アクティビティや日本以上にばんばん飛び交う飛行機の利用者・関係団体ともろに利害が衝突する。そんな話。
事実からは当為は導けない。哲学の基本の「き」らしいですよ。「〜だ」から、「〜べき」とは言えない。
サウンドスケープをめぐるバーニーさんの仕事は充分科学的だし、事実だと思う。ただ、事実をもって当為を補強しようという意図がこっそり含まれてもいる。この種のちょっとした背理というか、押し付けがましさが、僕を居心地悪くさせる。
内容豊かで鮮やかな前半部から、なんだかどうも説教臭い後半部へ。これが残念。おじいちゃんだから仕方ないけども。インダストリアルを知っているおじいちゃんはロックンロールでかっこいいけれども。
そんなことで、内容としては面白いし、実際に僕がうろうろしている林で音を録ったらどうなるかなぁ、というのも面白そうだなと思いました。なによりサウンドスケープは新しい生物多様性のものさしになりそうで、今後使い勝手が出てくるかも。
キライだけど便利なものは便利みたいな節操のない二枚腰な性根が僕の強みです。
こういうのは知っておくに越したことはないから。
それはそうと、本書を読みながらずっと念頭に置いていていたのは高木正勝さんの新譜のことでした。「原生」を知らない、かわいそうな日本の民草としては、だ。
これは、サウンドスケープ的文脈において、けっこう凄いレコードかもしれない。
そんなことを次は書こうかと思っています。