2015年1月20日火曜日

高木正勝さんの『かがやき』を聴いたよ

これがなにかの続きなのか、どうなのか。いまいち判然としない。
ようやく4万回聴き終わったので、れびゅーしようかと思って。

高木さんとottoのライブをみて考える「表現すること」
ライブ中の高木さんの発言について、もう少しだけ。
「シンプル」に関するお話。あるいは「分析的であり過ぎること」について。

かがやき
かがやき
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高木正勝
felicity (2014-11-19)
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細君であるさとうみかをさんの絵本付き。レコードジャケットも。このひとはすんげぇ力強い絵を描く。「しるしる」と降る雨って、いいな。
なんだか、ぼくはいま、もうれつに、えほんを乱読したい。




数年前に彼は京都の山奥に移り住んだそう。そこはとても自然豊かなところであり、人の心も暖かい。「縄ない」なんて地元の人に教えてもらったり。トーク・セッションで高木はんいうてはりました。
さとうのブログを見ると、なにやら楽しげな彼らをとりまく風景が伝わってくる。
鳥まんじゅうサック 

その場所に住んで、大事な瞬間を逃すまいとしていると、どうしても「アミの目」が細かくなってしまう。過剰になってしまう、と。
そんな文脈があって、「シンプル」という言葉が出てきたのでした。あーようやく前のエントリーからつながった。よかったよかった。




あーこんな感じなんですね。

そんなわけで、彼の云う「過剰さ」がこの新しいレコードに表れていることを、彼自身だって否定しないだろう。2枚組のレコード。2枚目はいつもの静謐なピアノ・レコード。もちろん聴き応えがある。でも面白かったのは1枚目。

一聴した驚き。ピアノの音が後ろ側にある。エレクトロニカ時代の彼の作品にはそういうものもあった。しかし「ピアニスト」に変化を遂げてからはそういう部分は減った。じゃあ何が前面に出てきているのか、という話になるんだけど。

たとえばそれを「雑音」と言ってしまうと語弊がある。録音時の周辺の音がたくさん入っている。
風のばたつく音、人の声とか鳥の声、虫の声。それらはすべて、意図的に録られたものだ(だと思う)。ちゃんとサラウンド処理されていて、聴くに価いするものとして、僕の前に差し出されている。
ヘッドフォンでの試聴推奨。けっこうすごいよ。

この辺から、この前の「サウンドスケープ」という言葉が思い浮かんだよね。
タイムリー・ヒット。
書評:『野生のオーケストラが聴こえる』を読んで、すごいけどちょっとだけ鼻につく。
もちろん、かちっと当てはまるわけじゃなくて、想起する、という程度なんだけど。



真冬にこう、スピーカーを通して蝉しぐれを聴くのは実に不思議な気分だけれども、ああ夏だな、と確かに思うよね。熱気や匂いが漂ってくる。季節と音は深く結びついている。
思いついて、家の窓を開けてみる。昨日までの強い西風と雪はやみ、少し日が差している。4度。ちょっとあったかいけど、うわぁくそさむい。
あ、でも今日はふとん干せるじゃないか。

音は、と探す。

木々のざわめき。近くを流れる川のざー、という音。少し離れた海岸からの海鳴り。時折思い出したように鳴かれる鳥の声。
冬は音がないと思っていたけれど、それでもいくらかはあるのだな。それでもやっぱり、夏みたいに鳥の声で目を覚ますような、溢れんばかりの「濃さ」はないのだ。
そして実際のところ、僕もずいぶん自然豊かなところに住んでいる。

大事な瞬間を逃さないこと。そして、アミの目が細かくなってしまうこと。
彼は平たく言ってずいぶん田舎暮らしをエンジョイしてるってことでしょう。美しい瞬間がその場所には、それこそ無数にある。だから、演奏を取り巻く空気も含めて録り込んでしまおうと。
そう考えたんじゃないだろうか。



本作のもうひとつの特徴として、地元のじいちゃんばあちゃんが歌手として登場する。クレジットには「すえさん」「しづさん」といった、割と趣のあるお名前をお見受けする。
技巧的にどうこう、という話ではない。
以下想像。高木さんがピアノに座っている。地元の人が訪ねてくる。毎日のようにいらっしゃる人もいるらしい。腰を掛けて、話して。きっとお茶だって飲むだろう。ばーちゃんの歌う前に言い訳する。ひとしきりなんだか言い訳して、歌う。
その歌声は、どこか懐かしい調子を含んでいて、不思議と心を落ち着かせる。

あるいは、アフリカの子どもたちの声や歌。近づいたり遠ざかったりしながら、泡立ち、渦巻く。ピアノはなんだか伴奏みたいだったり、時に力強くなったり。テーマが失われないように、揺らぎながら支えている。


 
なにこのJICA的なステージ。

たくさんの雑音が含まれるレコード。それはたぶん、彼のいまの関心や生活を率直に表現したレコードなのだろう。



周囲の環境も含めて録り込んでしまおうというアプローチは、サウンドスケープとどこか似ている。もっともバーニー・クラウスの構想するサウンドスケープは芸術というよりも、どちらかというと研究的(そして精神的)なアプローチだ。
一方で、もしバーニーに取り落としたものがもしあるとすれば、たぶん「人に対するのまなざし」だろうと思うんだ。
彼は無機的自然(川のせせらぎだとか、雨の音だとか)の発生させる音を「ジオフォニ―」、動植物由来の音として「バイオフォニ―」、人の発生させる音を「アンソロフォニ―」と分類する。
アンソロフォニ―。anthro-phony、"二本足の連中の音"という意味だろうか。


人が発生させるのはなにも工業的ノイズだけではない。
音楽的にはここ20年、音そのもので言えばせいぜい産業革命以降の産物でしかない。人の歴史は絶え間ない作業音とともに、たくさんの言葉、歌が育まれてきた歴史でもあるはずだ。「木挽歌」や「麦踏み歌」みたいに作業音と歌がいっしょに紡がれてすらいる。子守歌だってそうだ。

バーニーは鳥やクジラの「鳴き声によるコミュニケーション」ついて触れる。であれば、人の話す音や歌声こそ、僕らがもっとも古くから知っていて、馴染みのある「バイオフォニ―」ではないか。
人が刻んできた歴史なりに、それらは周囲の自然とよく調和する。少なくとも、僕の耳にはそんな風に感じられる。
機械音は独特だし、確かに破壊的ではあるよね。だとしても、人と自然は、それほどきっちりわけないとダメなのか。

「太古から続く自然を持たない」島国の出自だから、そんな風に感じるのかもしれない。そりゃあ原生林行ってみたいっすよ、コンゴとかアマゾンとか行ってみたい。
でもさ、心が欲するものとして、この程度で充分だ。こういうほうが落ち着く。
原始を忘れた、二次林の民として。



冒頭のyoutubeの最後。
演奏する高木。撮影者は夢中で演奏を続ける彼を置いて、窓を開け、外を映し出す。
のどかな風景。青い空。風と鳥の声。強いけれど、どこかはかなげな秋っぽい日差し。
後ろで弾かれつづける、ピアノの音。

なにかが示唆されている。
そしてその示唆はけっこう的を得ている。
そう感じるのは僕だけだろうか。