2017年5月28日日曜日

一見、クローズド・サーキットに見える場所を巡る旅

家系的に白髪な性でして、両親ともに真っ白です。
若い頃は好き放題に染めあげて遊んでいたし、就職しても名残のように染めていました。黒毛に染めて入社して、あっという間に色が抜けて赤毛に戻ってしまったのも、今ではいい思い出です。
ところがここ数年、白髪染めの頻度が増えてきて、分け目・生え際の白髪に関する淑女たち悩みには深く共感しているところでありました。
これはまさに、石を積んでは鬼に崩されるアレであり、諸行無常、もののあはれとはかようなものであろうと、思い致した次第。

そして先頃、わたくし、白髪染めを引退しました。

唐突の白髪化に、病気か!大丈夫か!という反応を頂きます。
先日姪たちに会ったんですけど、僕の顔を見ずに頭髪ばかりを眺めていたので、いささか不愉快になりました。男は頭髪じゃない、中身だぜ。
そんなわけで、久しぶりに僕を見た方はびっくりしないよう、よろしく願い申し上げます。
メラニン色素の生成機能は損なわれつつあるようですが、僕は元気です。じょーじくるーにーを目指してがんばります。

今ならキレイな赤が入るんじゃないか、と悪魔が囁くのですが。


頭髪の衝撃といえば、この方。
誰だろう、このおっさんは、と思っていたら。
 
空気読まずな方なのかと思っていましたが、存外、気苦労が多いのかもしれません。
わたくしは今、彼に猛烈なシンパシーを抱いています。

白皙の美青年が、おっさんに堕ちていくのは、もの悲しい。
そのように、おっさんは思うわけであります。



そして、村上春樹の新著を読みました。ようやく。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹
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またしても穴に入っていくのですね。まったくお好きですね、という話。

あるいは、Richie Kotzenさんは、相変わらず同じことをしているよ、という話。

二本同時にお送りします。


全国8,000万人のハルキスト諸賢にはご案内のことなので、改めてこんな話をするのは気が引けるのですが。『ねじまき鳥クロニクル』において「僕」は、「井戸」に入ります。今作でも主人公は穴の中に入って座り込む。
執拗な「穴」という装置への執着、もしくはネタ切れ感を覚えます。

考え事というか、瞑想というか。
異界に入るための儀式。外界を遮断することで、現れる扉。


Salting Earth
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それはさておき、リッチーさんの今作、あんまり佳いレコードではない。
そう思いました。
「玄人好み」という言葉はたぶん、何かを覆い隠すでしょう。聴かれるべきフックは時折ある。そうはいっても冗長で、起伏や表情に乏しい作品に映りました。

なんというか、調子が悪かったんだな、と。


 

ここで在りし日、男前だった頃のリッチーさんを再確認しましょう。
わずか2年前のことでした。
The Winery Dogsさんたちの新譜がかっこいいよ
こいつも髪の毛染めてやがったんだな、まったく若ぶりやがって。

練れた楽曲と、職人たちによるテンションの高いスリリングな演奏。
ハードロックのイデアみたい楽曲だと思います。


それとして、このリッチーさん。近代ミュージシャンにあるまじき多作家です。1989年のデビュー以降、19枚目のソロレコード。70年代かよ。
その上、合間を縫ってMr.BigやらThe Winery Dogs、さらには有象無象のセッションをこなしている。めんどうだから数えないけど。

繰り返すと、今作はあんまり佳い出来ではなかった。
だからといって、彼がダメな男というわけではもちろん、ない。
彼は「光よりも早く弾く」ギタリストとして二十歳前に頭角を顕した、早熟の人であった。同時に、その齢(と甘ったるいルックス)に比して、はるかに枯れた、ソウルフルで黒っぽい声の持ち主でもありました。
従って、バカテクギタリストのくせに、彼のソロ・ワークはその声を活かした、楽曲中心のファンキーかつブルージーな作風で一貫している。二物も三物も与えられた男は、実に勤勉に渋い仕事を続けていて、今作でもそれは変わりません。

えらいなぁ。仕事熱心だなぁ。僕と違って。そう感嘆します。
そして、ふと思うのです。

飽きないの? と。


同じことを繰り返すこと。その行為について。
今の仕事を始めてから12年目、このアパートに引っ越して3年目になる。飽きたかどうかと言われると、特に飽きてはいない。
リッチーさんのことは、僕が15歳の頃から存じ上げています。
その歌声。全体的に抑制的でありながら、時折火がついたように迸る、ちょっと細めで枯れたギターの音色。20年くらい経つけれど、今のところ、飽きてはいない。
新作が出る度に、ああだこうだ、とケチを付けながら、耳を傾けています。
飽きてないじゃないか、僕にしても。


思うに、
繰り返すことは目的なのではない。結果として、繰り返す。
食べるように、寝るように。

モチーフは所詮モチーフだ。
穴に降りるのが目的ではない。瞑想が目的ではない。他にあるのでしょう。

リッチーさんの指遊びが導き出すものは、玉石混交である。しかし、その指遊びからでしか、彼自身は彼の内面にアクセスできないとしたら。

人は、自分自身のことがよく分からない。
自動筆記みたいに、作曲と演奏を繰り返す、とする。そういう種類の自己対話。
寝たいから寝るし、食べたいから食べる。しかし、その時僕は、寝る目的・食べる目的を完全に理解しているか。言えないだろう。

手ぶらで真っ暗な海に降りてゆき、そこで何者かと出会う。帰ってきて陸に上がり、陽の光の下に照らされて、彼は自分が手にしたものを初めて知る。
もしそうであれば、「自己対話」という言葉は、あまりにも卑小であろう。
身の内に広がる、未知の世界を旅する。そこに「飽きる」という要素は、存在しまい。


話は徐々に、再び、村上に逸れていく。

『クロニクル』でも本作でも、外的な必要性に迫られた結果として「穴」は連関する。
上の妄想からすれば、「穴に降りる営為」は、完全に内的なものとして完結しているはずだ。
しかし、リッチーさんからすれば、「自己対話」はメシの種であるし、このようにしてリスナーに批判も食う。だから、すべてが内側では完結しない。
やわやわと、外界につながっている。


そして、それだけではないかもしれない。

思考は転がり続け、こんどは『海辺のカフカ』を思い出す。
大島さんに云わせた(というか彼(女)に日記に書かせた)「夢の中から責任がはじまる」という言葉。印象に残っている。
「夢の中で起こったこと」と「現実」との符合性については、『騎士団長殺し』ではそれほど強く意識されていないと思う。より普遍的で、独立した事象。
夢は夢、現実は現実。

しかし、夢の受け取り方、それからの成され方は通じるものがある
田村カフカくんは「反証できない仮説」を探し出し、そこに賭ける。
「私」は、「夢の中で起こったこと」を、現実に繋がる事実と解する(そして、稚児を自分の子どもとして育てる)。
「夢」は、彼のあり方を変えたのだ。

内的に閉じられるはずの営為は、外に開かれている。
うち、借家住まいだから井戸なんてないし、そんなダイ・ハードな夢なんてみないし、歯を磨いたころには忘れてるし。
そうは思うのだが。

僕の場合、気持ちは17歳くらいからあんまり変化していないように思えるんですよ。
一方で、僕らは知らないうちに、どこかへ移動しているのではないか。そろそろと。いつの間にか白髪になった頭髪も含めて。
最近、そんな風に思うようになりました。


人は自分のことを結局は能く知りえない。確かにそうだ。
そうであったとして、リッチーさんが指遊びを続けるように、あらゆる回路を通じて、自分自身のことを知ろうとする努力は、した方が良さそうだ。

夢判断したい!とか、予知夢みるぜ!とか、神さま天啓を我に!とか、
そういう話ではない。

たとえば、僕が知らないままにどこぞに流され、気がついたら足腰が立たなくなって、ふがふがとしていたと想像する。17歳の気持ちのままで。
そんなのヒドイ!と怒る相手は、恐らくいまい。ふがふが!、と言っているようにしか聞こえなくて、はいはいおじいちゃん、と介添えされているとしたら、まあまあ御の字ではないか。

日々、会社に行って帰る。その繰り返し。のように思えて。
どうも僕は、止まってなんかいない。移動している。そろそろと。
そんなことを、思うのです。


あ、リッチーさんに於かれましては、次こそは佳きものを拾い出されますよう、頭髪の後退には十分留意されますよう、お祈りしております。
村上さんに於かれては、なんだかんだ楽しく読みました。
いつもどうもありがとうございます。