2026年5月2日土曜日

僕が機械だったころ / 「マネジメントシステムのひみつ」

気がついたらもう5月。みなさまいかがお過ごしでしょうか。


「マネジメントシステムのひみつ」
https://kids.gakken.co.jp/himitsu/library224/

関係先から広報しろ、と言われたような気がしたので。


子ども向け、という体裁だけれど、あれは別に子どもに読ませるためのものではないんでしょうね。


読んでいて、最初は、そうだねえ。

治山とか林道の現場監督をしていたころにやっていたプロセス・チェックを思い出した。


プロセスチェックは、工程管理の一貫でもあるし、工事の進捗で不可視になってしまう部分をあらかじめ確認しておく意味もある。最終的に点数化されて受注者に返される。

簡単に言えば適切な工程管理や丁寧な仕事に対する評価を施工中ずっと行っていて、それがインセンティブ化されている代物、といっていいのだろう。

面白いことに、監督員たる僕はプロセスチェックをしながらこの辺のことをさっぱり理解していなかった。上司からたいした説明もなかったし、変更設計をはじめ、それ以外にやること/心配ごとは無数にあった。だから、なんだか工事の最後に一気に書いていたよね。一つ一つの項目を適切な段階で確認していたとはとても言えない。

あれは文脈として完全のマネジメントシステムのそれだから、もう少しなにか説明があってもいいかもねとか、ダメな体験談とかを織り交ぜてブログにしてやろうと思っていたんですよ。

そうやって少し距離をとって、笑おうとしていた。でも、読み進めるうちに、揶揄では済まない違和感が残った。

僕も「意味がわからないまま回していた側」の人間だ。MSは意味が剥奪されて運用されているケースがある。



前職を去る前後、なんかブログが書けないと思っている時期があった。そのとき、「ブルシット・ジョブ」や「恐れのない組織」や「隷属なき道」を読んでいた。だいぶ病んでいるラインナップ。

当時を思い出すと、書くことがないと思っていたんだ。今にして思えばそれでも書くネタはたくさんあったはずなのに。
なんだろうな。

僕がその事柄に触れる前に、世界が先にその事柄を説明されてしまうような感覚があった。僕が言葉にする前に。
付け足すことはない。だから、僕が言葉にする必要はない。



当時、「マネジメントシステム」という言葉も知らなかった。けれども、仕事としてやっていること自体はMS的なものだったと思う。

まあ、大文字の仕事ですよね。知識も経験もばらばらな人間が集まって仕事をする以上、ミスは起きる。そのばらつきを小さくするために、手順を決め、チェックをし、記録を残す。これはどこの職場でも、昔からやってきたことだ。


ただ、僕がいた場所ではどこかで「無謬性」が前提になっていた。行政という組織の性格上、ということもあるんだろう。

人は毎年入れ替わる。4月にはリセットされる。だから、全体像がわからなくてもいいから、とにかく「これをやれ」「ここを確認しろ」とプロセスが引継書のリストとして細かく書かれていく。


例えば、あるミスが起きる。書類の添付漏れとか、日付の記入ミスとか、そういうやつだ。僕が所属している組織の外の誰かさんに迷惑がかかる。

それはとっても遺憾ですから、原因分析をする。「確認が不十分だった」という結論になる。まあ、そうだろう。そこで改善策として出てくるのが、

「チェックリストを追加する」

「チェック要員を増やす」だとか、よくあるやつだ。


チェックリストは、当初は5項目くらいだったとしよう。それが、似たようなミスが起きるたびに1項目ずつ増えていく。気がつくと30項目を超える。

しかもその30項目はすべて「大事」だ。どれか一つでも抜けたら、また同じ手続きが始まる。だから、誰も削らない。削れない。


チェックすべき点が3つならまだいい。でも30個になったら、人はもう追えない。もちろん、全部追える人もいる。でも全員がそうではない。

当時は、人手不足が原因だと思っていた。実際、人手不足だったし、それは間違っていない。でも、それだけでは説明できないしんどさがあった。


たとえば、いくつもある申請書それぞれについている「30個のチェックリスト」を同じ強度で人は追えるか。僕は追えない。

たぶん三つ目くらいの案件から省略しはじめて、10個目くらいの案件でうんざりして、漫然と眺め始めて、適当にチェックをするのだ。まあ、それでミスが起こるんですけどね。

むしろ、それができる人は、とんでもないすごい人であるかもしれないし、とんでもない愚か者であるかもしれない。

端的に、ミス撲滅対策として安直にチェックリストを強化するのは愚策という感覚があるし、人という実に飽きっぽい存在は本質的に、機械的な反復作業とは相入れないんじゃないのか。



飽きっぽさ。
MSを回すのはけっこう退屈なんだよな。正直なところ。目新しさがない。

同じような計画書を読み、同じような安全訓練を受け、同じような注意事項を確認する。

無謬性を旨とする組織は特にMSと相性が悪い、ということはあるんだろう。本当はどんな人でも、どんな仕事でも同じなのにね。たぶん、気位が高いんだ。そしてその組織としての気位の高さは、そこで働く人に過剰な負荷を与える。

ひとたびミスが起きると、その負荷は異常に高い。責任の所在を問われ、報告書を書き、再発防止策を求められる。退屈さと過剰な負荷。この組み合わせは人を疲弊させる。


人は、MSを丁寧に回そうとするよりも、

「これ以上面倒なことにならないようにする」ことを優先する。結果として、MSは形式的になり、意味を失っていく。

それでも責任だけは残る。意味が剥奪された作業に、責任だけが過剰に残っている状態。


エラそうなことを縷々述べてますが、その矛先は僕の後頭部に刺さっている。
僕はシステムそのものであった。システムの皮を被って、考えるのをやめていた。それ以外に悩まないといけない事柄が山ほどあった。



子ども向けの本を読んで刺激されてしまう、っていうのもどうかと思うんだけど。

院生のころの話。尾関先生が言っていた(ゼミのテーマとなっていたかも)「システムによる生活世界の内的植民地化」という言葉を、折に触れて思い出す。

僕はハーバーマスを読んでいない。尾関先生の著書を辛うじて読んだくらい。というか、常人ではあんな大冊なんて読めないでしょ。なんの罰ゲームだよ。
ということで、まったくの不勉強学生は、このテーゼを語れるほど理解していない。僕は研究室で、その話が語られる場で、息をしていた。それくらい。

でも、僕がシステムにいた、あのとき感じていた息苦しさは、なんだかそれっぽいような気がする。現に当時は、僕はシステムにすり潰されそうだったし、システムを体現さえしていた。あくまで感覚として。



誤解してほしくないんだけど、マネジメントシステムは不要だとは思わない。むしろ必要だ。

問題は、それが人の生活世界を押し潰す形で運用されてしまうことだ。

オゼ研にいた僕は、たぶんシステムが嫌いだった。なんとなく。人造人間みたいな、ヤバい感じがしたんだろう。卒業して仕事を得て、システムの中に入って、無言になって出てきた。

あのヤバい感じをこんな風に形容しよう。

システムが生活世界を置き換える瞬間が嫌いだった。


時間がなくて、でも作業を回さなくてはいけなくて、そのほかにも「人っぽい」何かを言ったりする必要もあった。

「人っぽいこと」に割り当てる時間を捻出するため、僕自身が機械になった。

システムとしての僕は、非効率な生活世界の僕が煩わしかった。

生活世界の僕は、システムの僕にどこか怯えていた。

僕はその狭間でタバコを吸っていた。

煙がある間、僕はそのどちらでもない感じがしたから。逃げてたんですね。端的に。

そんな感じで、こういう人になりたくないな、という人になった。

「仕事の顔」みたいな生やさしい話じゃない。その人はシステムの一部になる。

システムとしての僕は生活世界の住人の僕を憎みすらした。
あいつは無駄な時間を使いすぎで、ずいぶんと非効率だから。


本当のところ、根本としての僕、生活世界の住人としての僕は、システムそのものよりも無責任で非効率な態度の方が嫌いだ。想像力のない怠惰さとか、無反省な前例主義とか。

そういう人やケースを見てきたから、それよりはシステムを使ったほうがいいだろうと今でも思う。

でも問題はそこから先。システムに蹂躙される世界は、わりと目と鼻の先にある。

その世界ではきっと、僕は僕を憎むことになる。

そこに至ると、無邪気な暗愚さが横たわる世界のほうがずっとマシだ。

ひとまずそう信じている。相応にイライラするんでしょうけれど。



最初は、マンガを揶揄しようと思っていた。でも、書きながら気づいた。

本当に引っかかっていたのは、笑い話にできなかったあの頃の感覚なんだろう。