2013年7月15日月曜日

昼下がりのロックンローラー

結局オマエは死にそうな人か死んだ人が好きなんだろ、とロックを解さない知人に言われたことがある。もし悲劇性を称揚できないのなら、シェイクスピアのどこを見たらいいんだい?という気の利いた返しなどできるはずもなく。
なんか同じ話を繰り返している気がするけれど、この際気にしないことにする。
順調におじさんになっているということだ、つまり。



レコードに封入されているライナーノーツを読むのは今でも大好きだ。最近データで買うことも増えて、その辺が残念なんだけれど。その人のバイオグラフィー/固有の物語が、書かれているから。初めて買ったアーティストは文字通りバイオ。旧作なら(大抵はビックネームに分類されるアーティストだ)このレコードを作っていたときどうだったか、が書かれている。ほう、彼らの背景はこんな感じか、とか、こいつら大喧嘩しながら作ったレコードだったのね、とか。なにしろ貪るように読んでいた。
なんでだろう。単純に音楽だけを聴いていたとしたら、あんなに聴き込んだだろうか。どうだろう。


人は変わるし音楽も変わる。音楽雑誌に「ダメになった」と書かれたりもする。重ねられたレコードはその人のログでもある。流行り廃りやクオリティとはまた違う要素で、その人とともに変わっていくのは仕方のない。いつまでもハイスクールやキュートな女の子について歌っているわけにはいかない。税金や老後の心配をしなくてはいけない。
ダイアモンド・デイヴさんのようなひともいますけどね。

ロックンロールに「老いが要らない」理由は、アティテュードの音楽・オルタナティブの音楽だから、だろうか。エバーグリーン。反逆の旗はエネルギッシュな若い人間によって担がれるべき、だからか。そういう気もする。ただね。
でもアティテュードそのものは代替可能だ。新らしいクソガキがその旗を奪って掲げればいい。いつ「ロックンロール革命」が成就するのか知らないけれど、とにかく、ずっとそうやってきたんだから。

してみると、代替不可能なのはアティテュードではない。やっぱりその人となりだろう。ミュージシャンとしての個性や才能、そういったものは「誰々みたい」では還元不可能な部分だろう。

って思うとね、イコンに祭り上げる行為がロックンローラーを殺すんじゃないか、っていう気がしてくるんだ。もちろん死んだ理由なんて100%個人的な理由でしかない。でもさ、ガキどもが神輿に乗せるから落ちるんだ。とかね。
不思議だよな、リスナーは勝手に共感しているだけなんだから。なんでやってる側にまで影響を与えるんだろう。トム・ヨークくらいシニカルでないとしんどい。ほんとうに"Only good die young"を地で行ってしまう惨状が。
「好きなものを壊す」のは、未必の故意なのかもしれないぜ。もしかしたらな。


この場で僕が確認したいことは、ロックンローラーはイコンである前に生身の人間だよな、ということだけだ。あいつぁいっっっつもグルーピーたちとよろしくやってたぜ、っていうのはあんまり普通だとは思わないけれども。普通の人間ではないにしても、人間は人間だ。なにも好んで「伝説」になることはない。
レコードをその人の歳とともに刻まれるログとして、追いかけていければいいのかな、と34歳目前の現在、思っています。人身御供みたく、いろんなものを背負わせすぎるのはクズ野郎のすることだ。まずメシを食え、そして外に出ろ。
そういう心持ちがたぶん、「ロックンローラーを殺さない作法」なんじゃないかしら。
ティーンにはまず理解されないだろうけれどさ。そういう風に思います。今でははね。


近世ロックに燦然と輝くカート・コバーン先生が46歳のおっさんになってREMみたいになったNirvanaは聴いてみたかったし、実際48歳のクリス・コーネルさんが昨年レコード出してて、それが単純に嬉しかったし。Black Sabbathなんてオイオイ、という歳でまた、不吉なレコードを作ったことからして。

その先がないってのはどう考えたって不幸なことなんだよ。
「絶頂」の時代がどんなに美しかったとしても。