2008年7月7日月曜日

世界はパルプンテではない

茂木健一郎と立岩信也のシンクロニティについて。

以下茂木
(コンピュータのような規則的反応ではなく、かといってサイコロのような不確実ででもない
ものを指して偶有性とよんでいて)
どうなるかわからない、予測不可能性をはらんだかたちでの偶有性をもたない他者は、動かしがたい絶対的な存在になると同時に、「私」という自我が深くかかわるべき相互作用の対象としての資格を失います。

『「脳」整理法』 茂木健一郎 ちくま書房 2005

以下立岩
(私が制御できないものを他者と呼びながら)
私が手を触れようとおもわないことがある。…制御すべきではないという感覚があると思う。
…このことは、他者に対して、自己の制御の及ぶ範囲を限定するということ他者に対して
自らの価値の適用を断念するということである。
「むしろ自己によって制御不可能であるゆえに、私達は世界、他者を享受するのだと思う。

『私的所有論』 立岩真也 勁草書房 1997


科学者と哲学者が微妙な邂逅か。

他者とは茂木のいうところの偶有的存在。
アトランダムではないけれど予測不可能性が つきまとう。
完全にアトランダムな存在は私の関心をひかない。
神とか外部環境とか。ただし「環境」はさいきんでは
環境問題などで「汲めども尽きぬ泉」でも 「単なる背景」でもなくなってきたことから
偶有的存在として持ち上がってきた と指摘する。

また、偶有的存在は当然コントロール不可能な存在だ。
他者が領有可能ならば、すべては私であり、退屈してしまうと立岩。
他者は、制御不可能だからこそ、私は世界(≒自分以外のもの)を享受できるのだと。
科学者は偶有的存在と対峙する時に脳は活性化すると述べ、
哲学者はその偶有性≒他者性こそ、私が享受できるものだと述べる。
茂木は「触る」「触られる」(ダブルタッチ)といった直接的な感覚を述べていて
立岩はもっと受動的な「享受」としてそれを拡張しているような違いはあるにしても。
位相的にはだいたい同じことじゃん?


他者の他者性の剥奪はなにやらアメーバみたいなイメージがする。
周囲のモノがすべて私になってしまうということ。
私は周囲を侵食していく。世界が私になっていく。
リバイアサンみたいでもある。

偶有性は享受するものでもあり、ストレスでもある。
どれだけ「領有」できれば楽なことか、と思うこともある。
「私でない者としてその人が在るということ自体が、苦痛であるとともに、苦痛を
もたらしながら、快楽なのである。」
私しか、いない世界。
「そこでは私は私にしか出会わない。だからその世界は退屈な世界である。」

単純に他者の存在≒ストレスと考えそうになるけれど、立岩はそこを短絡しない。
むしろ、他者が不在であることによる欠落感をみよ、と言っている。ような気がする。

人と話をすること、本を読むこと、音楽を聴くこと、テレビを見ること
ミクシィのレスポンスですら(「足あと」ですら!)、他者を享受していることになる。
私ではないものに触れる、ということ自体が私を豊かにする。
もちろん、苦痛でもあるのだけれど。

秋葉原の事件も考えさせる。
他者の存在を渇望するということは誰にでもある。
他人との関係だから茂木のいう偶有性があてはまるだろうか。
想像をしてみる。「私だけの世界」は、
私にとってどのような世界だろう。想像してみる。
想像できないけれど、想像してみる。