2013年8月2日金曜日

多崎つくるさんを読み終えたにょ

足が痛くて文字通り足止めを食っているのでブログでも更新するよ!


やっぱり沙羅みたいな役回りの女の人は消えてしまうんだよな。キキみたい。やれやれ、だ。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋 (2013-04-12)
売り上げランキング: 192
村上の小説を読むといつも、「男の人ってどうしていつまでもなくしたものを探すの?」という知人の言葉を思い出す。なくしたなんて信じたくないからだそれは。あたりまえじゃないか。




それほど長くない本だから、やや性急というか、説明的すぎるきらいがあるような。考えてみると小説に描かれている以上の人生がつくるくんにも沙羅さんにもあるはずなんだ。つくるくんと沙羅さんはきっと天気の話だってするだろうし、スポーツや料理やどーでもいい話題だって話し合うはずだ。たぶんね。
ドラゴンボールなら悟空がバカみたいにメシを食ってたり、キャッツアイならネコどもがマジメに喫茶店を経営しているシーンが一番好きです。なんだろうな、日常がいいんですかね。

「ノルウェイの森」は時間が止まったような、一瞬が永遠みたいに引き伸ばされたような感覚があった(もちろんそれは、ワタナベくんの思考の経過を描写する必要があったからだ)けれど、たぶん本作はその辺の描写にあまり重きが置かれていない。


帰国後、一瞬だけ実家に帰った時、ねじまき鳥クロニクルを読んだ。久しぶりに。どうも僕らは重箱の隅で生きているらしい、と帰国して以来、薄々と感じていた。同時にこの世界はとっても重層的だと思った。きっと狭小な住宅事情を反映しているのかもしれない。
たしかに重箱の隅で生きているけれど、重箱の外にも世界はあるかもしれないと思うのはむしろ普通のことだろう。
壁を抜ける、井戸に降りる、夢を見る、山に登る、なんでもいい。同じことだ。ある種のイニシエーション。世界はメタファーだよ、カフカ君。

佐渡もずいぶん隅っこの方だけれど、カマウにいるとここも世界の隅だ、と思った。実際、南のはしっこにいたんだけれど。
じゃあ中心はどこだろう。東京だろうか。ホーチミンだろうか。違うと思う。都会に居る人のほうがもしかしたら「隅にある自分」を強く感じるのだ。サイゴンで普段お目にかかることができないジャックダニエルズを舐めながら、ぼんやりそんなことを考えた。僕みたいなことを考えている外人は存外この街にたくさんいるのではないか、と。
世界には中心はないかもしれない。中心があったとして、中心にいたとして、中心にいるからこそ、人は疎外される。


「壁を抜ける」にはきっと、ある種の素地が必要だ。たとえば、住まいが狭小であること。広大な敷地の住人はわざわざ壁を抜けようなんて想像もしない。物理的にもメタフォリカルな意味でも。狭小住宅の住人こそが壁を抜ける素養、とみた。
深窓の令嬢ならいいとしよう。病弱ならなお良い感じ。

もちろん壁を抜けようと念じること/努力することと、実際に壁の向こう側の世界が、疎外から開放された(変な言い方だ)世界なのかは別の話だ。ただ、壁の向こう側が仮借された世界であったとして、それが現実に影響を与えることだってありえる。二次元好きが三次元的彼女ができちゃう、みたいなね。

夢や思念と現実の境があいまいな部分があって、その両方で生きる。現実の世界だけで生きるんだったら世界はずっと自明だ。「すべてが自明な世界」ってなんだか伊藤計劃の「ハーモニー」みたい。「プライベート」という単語が単に「セックス」を直截意味してしまうような、開かれきった世界。幸いなことに今のところ僕らは「プライベート」という言葉がセックスを意味しない程度には、それぞれしっかりと雑多の存念や桃色妄想、およびそれに基づく行動を「プライベート」という名前の見栄えの良いふろしきで包んで抱えている。

「夢のなかから責任がはじまる」とまで言われると、どうしていいかわからない。抜けた壁の先でも現実と同じように振舞え、ということだろうか。
「カフカと呼ばれる少年」は「壁の向こう側」で推定お母さんに出会う。壁を抜けたこと自体が夢かもしれないし、実際にその人はお母さんではなくて他人かもしれない。現実だけ、壁の向こう側だけだとつじつまの合わない筋だけれど、カフカ君はきっと現実に帰ってきても、壁の向こう側での思い出を携えて現実を生きるはずだ。それが一番カフカ君が納得できる答えだから。
「こちら側の世界と向こう側の世界を同じように扱うこと」が、壁と抜ける資格なのかもしれない。


クロが優しすぎたから、沙羅が消えてしまった(しまうような気がする)し、つくるくんはもうカフカ君的史上最強の15歳じゃなくて、ただの電車好きのおっさんだから消えたのだ、という気もする。
「キキ的な女の子」はいつも、私はいつでもいるわ、あなたが求めれば、的なことを云う。僕からすれば、読んでいていつも冗談じゃない、と思う。お手軽かと。コールガールかと。アマゾン・ドット・コムかと。炸裂した、村上お得意の生殺しの構図。

一様に魅力的な彼女たちの役回りは一貫していて、主人公を示唆し・導く(そして一緒に寝る)、物語のガイドだ。それがどんなに善きことであれ、彼女たちによって混乱と喪失がもたらされる。彼女たちは自分の役回りを自覚しているけれど、主人公は(もちろん僕も)知る由もない。情報が不均衡なのだ。
村上の描く主人公はずいぶん前向きだからいいけれど、僕は置いてきぼりを食ったような気分になるし、そんな喪失を簡単に許すわけにはいかない。僕が求めるものは、しっかりとした手触りや匂いとか、そういうものだ。単なる日常だ。物語の道程にあるつもりも、ガイドなんて頼んだ覚えもない。夢や記憶で、なんていやなのだ。
だからどうも、いまのところ、壁の向こう側を現実と同じようには扱える自信はない。



ずるいのがこれを描いてるのが64歳のおっさんだということ。彼はいろいろな意味でそういうもろもろから「上がってる」だろう。
そういうもろもろに煩悶する年頃の人が「いつでもあなたのそばいるわ、お前の中ではな」で納得なんかするわけないだろうがばかやろう。
ここまで上がってこいよ、青二才が、と云っているように聴こえます。耳が悪くなったせいでしょうか。


そんなこんなで本作もずいぶん楽しく読ませて頂きました。どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。