2014年4月6日日曜日

IPCCの報告書をマクラに「適応」の難しさを考える

林道担当のはずなのになんだか治山もやることになりました。
なんだかなんだか、忙しい一年になりそうです。

しかも今回のお題は海。テトラポット、置いてみるか、みたいな。
これは治山なのか。そもそも林業なのか。
問題の現場、昭和中期までは海岸線がもっと沖のほうにあったそう。侵食され、マツ林がなくなり、海になった。だから海の底も地目上は森林(保安林)なんだって。
越の松原・雪の高浜
これはね、川から出てくる砂の量と潮目の変数でしかないと思うんです。
人為的に何かしようとすると、沖ノ鳥島的な何かをやらざるを得ない。
あんなに遠くも深くもはないけど。



さて、IPCCの第2作業部会の報告書が出ました。ようやく時代に追いついた。
第2作業部会報告書の公表について(環境省)
なんか去年も見た気がするんだけれど、なにが違うのか。例によって斜め読みをしていく中で、WWFの説明が一番丁寧だと思いました。
IPCC横浜会議:温暖化の影響と適応の報告書を発表 WWF
なるほどね。

僕が前回読んだのは科学的根拠に関する発表だったわけです。
IPCCの第5次報告書をざっくりと読んでみる回。
今回の報告書では温暖化の影響・適用・脆弱性に関するもの。次の作業部会では気候変動の緩和に関する報告書が示され、最後に9月に5次報告書としてまとめられる。


カマウ省はメコン・デルタ地域でした。デルタ地帯なので当然海抜は低い。1m上昇したらカマウ省の大部分はえらいこっちゃになる。うちの近所の5郡のうち1郡しか海抜2m以上の地域がないんですよ。だって。


うむ。不当なくらい空が青いな。画像加工したんじゃないか、これは。



面白いことにカマウ岬の東側が土地が増えていて、西側は削れている、と云われています。

 

ほーれ、いかにも削れそうじゃろ?
こうしてみると沿岸はすべてドロの海だとよく分かる。ムツゴロウとかいる。
白砂を求めてフーコック。ニャチャンでもいい。
なんだか、東側の海の方がドロの帯が若干太い気がしますね。たしかに。

デルタですから、ベースとしてはメコン川の水が運ぶ土砂が徐々に徐々に土地を増やしているハズだ。サイゴン川の土砂もあるかもしれない。
ところが、巨大建築物をバンバン建ててるベトナムですから、たぶんコンクリとか作るために川砂利をたくさんとっていると思うし、中国とカンボジアといった上流にお住まいのみなさまがバカでかいダムを作ったりしているので、実際に海に到達する砂利の量は減っている。と、思うんだ。
あとは潮の流れと、付け加えるならば気候変動の変数で、増えたり減ったりするでしょうね。

海岸侵食はなにしろ変数がありすぎて、土砂収支的にどうなっているのかさっぱりわからない。気候変動が原因であるかどうかもわからない。
気候変動対策のプロジェクトはカマウ省でたくさん実施されている。ドイツやオランダなど諸外国の政府・NGOが活動中。護岸を作るだのなんだの。こんなバカ長い海岸線にムチャだろうと思うんだけど。
一方で、土地が減っている地域は明らかに減っている。同僚のNguyenくんが10年前の空中写真をもっていた。Googleearthのオルソ画像で重ねあわせると10年で120mくらい、海岸線が後退しているのだ。
で、漁村が消滅した。

内陸部の新しいコミューンを訪れた。放棄された海沿いの村からこちらに移り住んだのだ。カマウ省とスイス・レッドクロスの援助で新しい家が建てられた。


ずらっと立ち並ぶ緑色の家。このあたりの建物は木とかニッパヤシとかバナナとかで作ることが多いので、コンクリート造りの家屋なんてずいぶん豪華な話なんです。



お宅拝見、ということで。きれいでした。ああ、この衣装ケース超なつい。


開かれた土地と新しい家はすべて与えられたもの。援助サイコーなんですけれど、気になったのが住んでいるたちの表情。海の男はカマウにおいても刺青入って常に上半身ハダカ、みたいなコワモテの人が多いんだけれど、なんだか気の抜けたような顔をしている。
新しい土地での仕事がないのだ。周囲の田んぼはすべて元からいた誰かさんのものだし、川にだって先住の網が仕掛けてある。得意の漁業の腕を振るう場面は少なそうだ。申し訳程度に川の隅に小さな罠を置いてあるくらいだ。ウナギ狙いですねそれ。

気候変動で生業が奪われた、のかもしれない。こういう風にじわじわ、少しずつ現れてくるような気がする。だからこその「適応」なのだけれど。


レッドクロスもいろいろ考えている。家の裏にぶたを飼うスペースをつけたり。コミューンの書記(田舎のコミューンって割と若い人が多いんですよ。なんちゃって社会主義国なので彼らは書記≒集落の総代さん)は給水塔の管理に奔走していた。

それでも場を覆う、緩んだ空気はしっかりと根を下ろしているように思えた。そういう種類の連帯感があるのかもしれない。奔走する書記さんにちょっと同情。
彼らはいずれ、この場所を離れてしまうんじゃないか。カマウ市、さらにはホーチミンに。そんな気がしていて、でもそれを咎めることはできないな、と思った。日本だってそうだったでしょう?
場所が彼らを必要としてないのなら、必要とされる場所に行くだろう。それも適応だ。



こぶたはかわいい。なんだかちょっとわらってる。
かあちゃんぶたは超でかい。


そんなわけで、今回の報告書で触れられていた「適応」は大事な意味を持っている。
どうも、それはほんとに起こる。そしてどうも、防ぐことができないらしい。だとすれば、その条件で生きる道を探す必要がある。
そして僕らは、衣食住さえ揃っていればいいのか。当面はいい。でもやっぱりそれだけじゃ足りない。40歳くらいの壮健としたおっさんが、手持ち無沙汰で一日中だらだらしてはいけない。いけなくはないけれど、なんだか彼らの元気を奪う気がする。

それは単なる怠惰にも見えて、そのうち自己責任の一部になってしまう、かもしれない。あんまりにも時間軸が長いと、原因なんてわからなくなってしまう。気候変動なんてまさにそんなイシューだ。
その手は絶対離さない、と約束できるのは、結局同じ時代に生きるひと同士だけなのだ。実際国だって怪しいもの。だからこの数十年は、いろいろな場所でずいぶんしんどくて忙しいことになるだろうな。


個人的には、ほんとに気候変動するかみたいな懐疑論的水掛け論よりも適応について考えるほうが僕は好きです。ドロナワという言葉も大好きです。