手先がまったく不器用にできていて、しかも算数が嫌いなのにサインコサインタンジェントとかマジ死にそうです。同じ班のみなさんには大変お世話になった。
講義で面白かったのは構造物と地震との関係。擁壁みたいな構造物は地震時の荷重は考慮しない。そう決まっている。先の震災では100キロのおすもうさんが80キロくらいの力で左右に揺さぶられるくらい苛烈なものだったそう。なんだそれは。
だから、非常時はアウトです。ザッツオール。そういう設計。シンプルだ。無限の安全性はない。あったとしてもすごい金がかかる。
生命保険に毎月100万円なんて払わない。僕の首は高くないし、そもそも金ないし。むしろ僕がひっきーになったほうがはるかに安上がり。あ、朝起きたらレディ・ガガだったり秒速で一億稼げる男だったりするなら前向きに検討します。
けっきょく誰もがリターンとヘッジすべきリスクとの考量で決定してるんだよな。
当たり前のことなんだけれど、たまに忘れるのだ。
だから、非常時はアウトです。ザッツオール。そういう設計。シンプルだ。無限の安全性はない。あったとしてもすごい金がかかる。
生命保険に毎月100万円なんて払わない。僕の首は高くないし、そもそも金ないし。むしろ僕がひっきーになったほうがはるかに安上がり。あ、朝起きたらレディ・ガガだったり秒速で一億稼げる男だったりするなら前向きに検討します。
けっきょく誰もがリターンとヘッジすべきリスクとの考量で決定してるんだよな。
当たり前のことなんだけれど、たまに忘れるのだ。
僕の歴史のなかでいくつかの治山ダムを作ってきたんだけれど、4作目がなかなか味わい深かった。ダムサイトにアクセスするために300mほど資材運搬路を作らなくてはいけなかったからだ。道の作り方なんでしらんし、でもやらないとダムが作れない。
そして、がっぽりと土を切り取ってしまった。これは悲しかった。真新しく荒々しい長大な切土面。ああ、おれはいままさに、かんきょーを破壊してしまった。現場確認に行って仰け反ったのを思い出す。
かつて、ダムなんかいらねーよ、とのたもうた人間が。なんということだろうかと。
あとは、法面崩れました―、と業者さんからの一報とか。血の気は引いた。
いまから思えば沢地形だから掘削したら水が吹くかもしれんな、とわかるんです。軽い破砕帯というか、風化の進んだ土質が顔を出すことも推定できた、はずだった。
本体工事と比較して付帯工事が大きくなることを、土木関係者はひっくり返して「あめささ」といいます。実よりもガワが大きいことの謂ですね。仮設工事に全体額の20%以上要したので立派なアメササ工事でありました。
もう少し谷側(右側)に中心をずらすと、切土の高さと面積が減ってきて、そんで盛土が少し増えて、経済的で山にやさしい道になる。
資材運搬路の一件はたぶん、一種のイニシエーション、あるいは単に慣れだった。
山を切るとはどういうことか、切った結果どうなるのか。僕はイメージができていなかった。がっぽり傷つけた山は、それがどういうことか教えてくれた。クールに、ソリッドに。
伐採した木を出すのに道は必要だ。じゃあ、どんな道がいいのか。悲しい気持ちにならないにはどうしたらいいのか。そんなことを考える必要がある。
研修を久しぶりにこなしつつ、昔を思い出しつつ、ああ面白かった、今日のびいるはうまかろう、と帰ったわけですが、別の機会で似たような感想をもったことが重なったので少し。
例えば山の中で大きな作業には重機が必要で、重機が出入りするための道が要る。
林業経済を専攻したわりに、僕は木材を出すための道について考えたことがなかった。けっこうそういうハナシは多いんだと思う。曰く、日本は過去最大の森林蓄積があります、とか。使える林は多いのに使われないのです、とか。
だぶん、林を実際に使うことへの想像を欠いているのだ。
へへん、ダムなんかいらね、と嘯いていた僕は十二分にナイーブで、ヤワで、バカだった。
こう言い換えてもいい。森林は育っても市場に出す方法がない。利用のことを考えずに好き勝手に造林した。だから結果として、使えない林がたくさんできた。使えないものを資源と呼ぶだろうか。
今さら林野庁は路網整備、と口酸っぱく云うのだ。彼らも含め、森をみて木を見ていなかった。
道を切ってしまうと風景は変わる。それは確かに改変で、破壊だ。しかしそれは、善悪の問題ではないはずだ。善悪が問われるのは、例えば「失われる貴重な自然」とか「良い風景」とか「非効率的な手法」とか。人の価値観が左右する。
価値観そのものに良し悪しはない。ただずっと、一人ひとりの価値観があるだけだ。
だから、こんな風に問うてみようと思う。僕らはどういう社会に住みたいだろうか。そのために好ましい選択肢はなんだろう。絶対に譲れないものはなんだろう。その代わりに譲ってもいい選択肢はなんだろう。
結局、その変数でしかものごとは動かないし、決まっていかない。
僕はどうやら、いつも同じことを考えている。
成長すると言えることは減っていく。昔もそんなことを考えた。いいことだ。いろいろ知って、大人になったのだ。たぶん大事なのは大人になっても、なお言いたいこと・言えることをいくらかは残しておくこと、なのだろうな。
資材運搬路の一件はたぶん、一種のイニシエーション、あるいは単に慣れだった。
山を切るとはどういうことか、切った結果どうなるのか。僕はイメージができていなかった。がっぽり傷つけた山は、それがどういうことか教えてくれた。クールに、ソリッドに。
伐採した木を出すのに道は必要だ。じゃあ、どんな道がいいのか。悲しい気持ちにならないにはどうしたらいいのか。そんなことを考える必要がある。
研修を久しぶりにこなしつつ、昔を思い出しつつ、ああ面白かった、今日のびいるはうまかろう、と帰ったわけですが、別の機会で似たような感想をもったことが重なったので少し。
例えば山の中で大きな作業には重機が必要で、重機が出入りするための道が要る。
林業経済を専攻したわりに、僕は木材を出すための道について考えたことがなかった。けっこうそういうハナシは多いんだと思う。曰く、日本は過去最大の森林蓄積があります、とか。使える林は多いのに使われないのです、とか。
だぶん、林を実際に使うことへの想像を欠いているのだ。
へへん、ダムなんかいらね、と嘯いていた僕は十二分にナイーブで、ヤワで、バカだった。
こう言い換えてもいい。森林は育っても市場に出す方法がない。利用のことを考えずに好き勝手に造林した。だから結果として、使えない林がたくさんできた。使えないものを資源と呼ぶだろうか。
今さら林野庁は路網整備、と口酸っぱく云うのだ。彼らも含め、森をみて木を見ていなかった。
道を切ってしまうと風景は変わる。それは確かに改変で、破壊だ。しかしそれは、善悪の問題ではないはずだ。善悪が問われるのは、例えば「失われる貴重な自然」とか「良い風景」とか「非効率的な手法」とか。人の価値観が左右する。
価値観そのものに良し悪しはない。ただずっと、一人ひとりの価値観があるだけだ。
だから、こんな風に問うてみようと思う。僕らはどういう社会に住みたいだろうか。そのために好ましい選択肢はなんだろう。絶対に譲れないものはなんだろう。その代わりに譲ってもいい選択肢はなんだろう。
結局、その変数でしかものごとは動かないし、決まっていかない。
僕はどうやら、いつも同じことを考えている。
成長すると言えることは減っていく。昔もそんなことを考えた。いいことだ。いろいろ知って、大人になったのだ。たぶん大事なのは大人になっても、なお言いたいこと・言えることをいくらかは残しておくこと、なのだろうな。