ぐにゃりとした背筋が伸びるような気がするから。
あれです。即物的な印象としてはサザエさん。昭和の情景。
こんな人に始終接していたら、ちょっと煙たいと思う。だってこんなに他人のこと細かく見つめているばあちゃんが近くにいたら、ごろごろできないじゃん。
それだけ彼女の目はいろいろなものをみて、いろいろなことを考えている。随筆家だからね。
実にたくさんのことに思いを巡らせるのは、それだけ時間をかけてひとつひとつのことからを見つめているからだし、裏打ちされたたくさんの経験があるからなのだろう。
考えるのと判断するのは違う。相応の時間を、ていねいに、細やかに、かけている。
僕が一番苦手で、まねができない種類の文章だ。
生活の中の美しさとは、部屋を美々しく飾り付けたり、きれいな器を買ったり、自分磨きとかいってお稽古事に勤しむことではない。とはいえ、カタチから入るのも大事だし、そもそも彼女自身も「くそオヤジ」こと幸田露伴に躾けられたからこその考え方や身体の動かし方なのだ。ニワトリと卵の関係で、不可分なのだ。
その眼差しはほんとうに自分のものなのかどうかなんて、判断がつきようがない。
彼女もその辺は自覚的なのだと思う。でも、美しいものは美しい。彼女はそう感じていて、言葉にする。
とまれ、居住まいに気を使ったり、挙措に気を配ったりする心性やそれに務める人は、美しい。やっぱりどこまでが自分のものかはわからない眼差しで、僕もそう思う。
ぱりっとした外見上の美人みたいな感じじゃなくて、内側から立ちのぼる美しさ。
彼女の文章に気品が漂う気がするし、それはずいぶん僕にとっては好ましい。
くくる、という章で彼女は12ヶ月のそれぞれを文章にしている。本当は5月が素敵だったんだけれど、6月なので6月を。
六月は湿る月、うるおう月、濡れそぼつ月、雨の月。そんな出だしから始まる。まだ早いにしても、これも素敵だ。
仕事が土木なんで、あんまり雨はイヤなんだけれど。
雨の音や匂いをぼんやりと嗅いだのは、一体いつのことだろう。
毎日に少しでも手触りのある感触を。
決めた。ていねい、という言葉を下半期のキーワードにしよう。