「トキまで2センチ!?」というファンキーなキャッチフレーズを携え、昨年出来上がった待望の「トキふれあいプラザ」。簡単に言うと、トキを動物園的に観察できる施設です。
トキの森公園のご案内
一方、実際のところ、トキ先輩たちはお疲れだったり腹いっぱいだったりかったるかったりして、けっこー遠くの方にいらっしゃることが多い。時折、バックヤードでタバコでもふかしているんじゃ、と思うほど閑散としたゲージを眺めることもある。
トキまで2センチじゃなかったのか。がっかりだぜ。うそ、大げさ、まぎらわしい等、様々に罵られ、悲しい思いをしつつ案内していたわけです。
そんなの先輩たちのご機嫌次第であって、僕のせいじゃないやい。
ところが今回。どうしたことだろう。先輩、ついに本気出しました。
なんか悪いものでも食ったのか。どじょうのレッドブル漬けとか。
僕が一番感動したよね。たぶん。
すごい!トキまでだいたい90センチくらい!って。
ここ4回目だけど(トキの森公園は10回以上は来ている)こんなのはじめて。
ところが今回のお客人、感動のそぶりもありません。まったくダイ・ハードなお客であります。周囲を見回しても興奮しているのは主に大人と、わりかしシュールな空気に包まれた、観察棟。
僕は少し考える。この児らにトキってやつのすごさを納得させる方法について。
要は知識だ。トキは希少である、レアキャラなんだぜ。そんな説明の仕方。しかし、だからどうした、という小指のひと押しであっけなく終了である。
もしくは。かわいいとか、愛くるしさとか。バナナワニ園のレッサーパンダとか、なにこのふわんふわんの愛らしい毛玉たち!って思ったもの。
しかしだね、こちらの先輩方、そんなにかわいいわけでは。
むしろ時代に寄り添い、全国各地で媚びを売りまくりつつ、キーホルダーを売りまくるハローキティ先輩による演目、「ときのきぐるみキティー」及び「たらい舟キティー」(佐渡ヴァージョン)のほうが、幾分かはかわいい。
参考画像:佐渡島に分布するキティー亜目
これは、打つ手なし。無力感に打ちひしがれたよね。
せっかく先輩にガラス越し90センチまで出張っていただいたというのに。
一昔まえの団体客的なアレを思い出した。場所やモノが目的ではなくて、旅行そのものが目的で、お前たちは私たちをどのように楽しませてくれるのだ、的なメンタリティ。
自分たちが見たい、と思った時にはもう子ども料金じゃないんだぜ、って彼女たちを脅してもなんの意味もないな。だっていま現在、興味ないんだものね。
ほら、我々が見物に行くとして、現地の人が嬉々として熱心に紹介してくれることってあるじゃないですか。腹の中ではくそつまらん、とか、はらへった、等の雑念が渦巻いていたとしてもなお、ははぁ、なるほどなるほど、応じるのが紳士たる大人の嗜みってもんです。
ここはどうなってるんですか?とか無理やり質問をひねくりだしたりにして。
子どもの振る舞いはしばしば、そういったオトナ的必死なやりとりを完膚なきまでに粉砕するわけです。つまんね。ザッツ・オール。
むしろ、ハタチを過ぎて(まだ1回も献血はしたことない(爾来貧血ぎみゆえ、人に呉れてやる血などない)けれど)から、僕自身が営々と積み上げてきた「オトナの嗜み」の大きさを痛感するのです。僕はどうやら、ずいぶんと社会化されてきた。
長じた現在においては、いとこのひろくんと「レストランのテーブルに置いてあるつまようじでチャンバラをする」等の罪なき悪戯はしなくなった。えらい、俺。
「社交体としてのヒト化」の過程というか、だな。
しかし同時に、「原初たる自分」からは確実に数万光年は遠ざかったことを、この奔放極まりない二人の姪を見てて痛感するのです。つまらんものはつまらん、あそびたい、はらへった。何が悪いのか。
あーそれは俺のサイフが軽くなるからだ。
違います。子どもみたいにあそぼーよ、仕事中に。とかでもなくて。
もう少し、本当に自分がやりたいことに対して、素直になってもいいような。つまるところ、「社会化」の実態って、相手に対する配慮であることが多くて、配慮配慮配慮配慮って突き詰めると自分がなくなる感じがするのよね。
言葉や気苦労だけがむやみに費やされ、中身がすり減っていく。
いいオトナではなくて都合のいいオトナ。相手、あるいは社会にとっての。
社交体だけ残ったヒトは、たぶんヒトではない。くるくると回転するなにか。機械とか、ヒトでなくてもよいはずなのだ。
カズオ・イシグロ「日の名残り」がおかしく、ちょっと悲しいのは、主人公の老執事がさながら「執事マシーン」を自認していながら、かつて館を去った召使い(だっけ)に恋慕してるところ。そしてそれを認めないところ。
カズオ一流の美しい文体で、老執事の述懐という形式で話が進んでいく。
「機械」たる自分に入ったクラック。彼はやはり、ヒトであった。よ。
「大人的な振る舞いのレッスン」とは「器づくり」に例えてもよいのかもしれない。社会に上手くはまるように、少しずつ自らの器を調整していく。あるいは状況や相手によってチャンネルを変えていく。
コミュニケーションの機微はその人の個性に還元されるかもしれないけれど、だからといって個性が器の形成に不可欠なものではない。一番は外部からの矯正だろう。要は「出る杭」。
て考えると、「個性を伸ばす教育」って、大人的な仕組みの上では全然関係ないな。「算数と国語と英語ができる社交体」で充分じゃないか。なんだか身も蓋もないし、それだってレベル高すぎだし。
いやね、それが生き方としてどうなのか。そんなところです。
無事たらい舟に格納された親子を眺めつつ、職場の終わらない仕事たちを省みつつ、そんなことを考える。
長子はコミュニケーション能力に長けている。おしゃまである。9歳児の僕と比較して信じられないくらいオトナ。既にある意味社交体。きっと宇宙人とでも友だちになれるだろう。将来は女優になるそうだ。
次子は溢れる体力をすでに持て余している。今後さらに持て余していく見込み。まったく末恐ろしいことである。本人は将来はアイドル、とはいうが、格闘家とかの方がよほど天禀があるのでは。
彼女たちはいずれやっぱり「出る杭」として頭をぶっ叩かれるんだろう。社会に「矯められる」のだ。程度の差こそあれ今だってそういう時間なんだろうし。
鍛錬です。下の子はもう少し「時計の読み方」の鍛錬も必要だな。
それはそれとして。
「社会の役に立つ大人」と「社会にとってオモチロイ大人」であれば、前者を尊敬しつつ圧倒的に後者を支持するので、それぞれなにかとオモチロイことを見つけて楽しく過ごしてもらえればいい。トキに関心がなくっても別にいい。おっちゃんはそう思うな。
ああ、いくら関心があろうがあと10余年はお酒はムリだぜ。