2016年7月30日土曜日

僕が「彼」にならないために

一切説教じみたことは言わないつもりで、思うことを縷々述べてみる。



障がい者施設襲撃容疑者の「神の声」はどこから来たのか 千田由紀  29.07.2016

私たちが「彼」にならないためには、何をすればいいのだろうか。



問いの焦点はここにしかないのだ。
彼は狂人か、気違いか。違うのだと思う。きっと彼は冷静なのだ。
冷静な彼は、実に冷静にその判断を下した。そんな気がする。


3つくらい、思うことがあった。


千田さんの言う通り、僕らの社会は効率性を是認する。どんどん突き詰めると、「彼」のようになる。この社会の一員として、自分は正しいことを成した。彼はきっとそう考えているだろう。社会が「彼」を作り出した。
同じ社会に住まうのだから、誰であれ、程度の差こそあれ、僕らが「彼」になる可能性はいつでもある。そう考えるべきなのだと思う。



僕らの夢は誰の夢だろう。お金もちになりたいだとか、イチローになりたいだとか。経済学で習う「美人投票」みたいなイメージ。社会が人の夢を規定するような、そんな感覚だ。
もちろん、自己実現とはそういうものである、学びはまねび、ということはあるにせよ。

一方で、人は所詮、非効率な生き物であるよね。
自らが非効率な、無能な存在であれば、自らの命を削るべきだろうか。
問いが違うな。
自らが無能であれば「真夜中に突然、誰かから刃を突き立てられること」を甘受すべきなのか。
ここに、罠があるだろう。自らが無能だと考えている人かどうかは、本人でないと分からない。往々にしてある実践としては、他者が無能か否かを「選別」するのだ。彼が刃を振るったように。もちろん「彼」を「社会」と読み替えたっていい。




彼はパワフルな人なのかもしれない。自分の命を捨て、裁定者として「無駄なもの」に刃を突き立てるのだから。その「裁定」が妥当なものかは、この際棚上げするとして。

強いものが、自らの命を軽んじること。軽々しく自らを弄ぶこと。かっこいいよね。映画のヒーローみたいで。
結局これが、たくさんの人を殺す。毎日のようにニュースを通じて目にしている惨状ではないか。
僕がなによりも忌々しいく感じるのが、裁定者たる彼に刃が向く時は、すでに多くの人が死に絶えることだ。あまつさえ、彼ら自身が死んでさえいる。



なんともうまくまとめられないけれども、思ったことを。