2020年9月5日土曜日

『樹木たちの知られざる生活』からの、いろいろ。




今日はこの本の紹介というか、転がりの起点というか発生源というかなんというか。
『樹木たちの知られざる生活』ペーター・ヴォールレーベン 早川書房 2017
転々と、転げ落ちていきたいと思います。



先のエントリーで紹介した森涼子さんの『グリム童話と森』。
読了から始まる随筆:『グリム童話と森』


この本の最終章、「現代の森番たち」で、著者の森涼子さんは、この本と著者のペーター・ウォールレーベンさんについて紹介している。グリム兄弟の描写を現代まで引き伸ばしたような試みとでも言えるのだろうか。

ペーターさんはドイツで話題の人物であること。元公務員フォレスターで現在は独立し、民間フォレスターとして働いていること。彼の手掛ける森は、農薬散布が廃止され、クレーンを使用した伐採もやめ、ロープとトラクターと馬搬を行っているとのこと。…馬搬。
ドイツでは2015年に出版された書作は40万部を超えるベストセラーになったそう。

以前本屋でこの本は見かけていたけれど、読んでいなかった。
こんなに煽られたら、これはもう機会であろう。そう思って手に取る。
この本のあとがき。
ドイツ国内での反響のほどは訳者により紹介されている。
「ヴォールレーベンは森に魂を取り戻した」
「森はこれからも秘密を守り続け、散歩に来た私たちの子孫を驚きで満たしてくれるだろう」。p248
なんだかすごいよね。


この本は専門家向けではなく、一般向けに書かれた本だ。
自然科学の要素も含まれているが、噛み砕かれて書かれている印象。
森を歩く発見と知識のミクスチャー。時に詩的ですらあり、滑らかに読める本だと思った。
とはいえ、この方は森林官。森林施業の記述も少しだけある。林業関係の書籍としては、いささか食い足りない。

また、この本はナチュラリスト的な立ち位置での語りであるのも特徴。
ナチュラリストというよりも、もう少しだけ傾斜がついてもいる。
ペーターさんは動植物の立場に立って語る。
ディープエコロジスト的。そう形容してもいいのだろう。
そんな風に考えると、平易なはずのこの本は、もう少しだけ重層的な読み方ができるように思える。


森さんもこんな風に書いている。
…ヴォールレーベンは人間社会に例えて親しみやすく説明する。木と木が友だち同志であるように、木々は人間の友でもある。…しかし私には、森と人間社会を類比することと、木を人間に例えることには多少の違和感があり、それ以上に、この本がドイツでベストセラーであること自体が、不思議だ。p230
いい本だし売れてもいい。ただし、反応が予想外だと云っているのだ。
ディープエコロジスト。以前考えたことがあった。
考えてみて、やっぱりそれには乗れないといってみる
2013年5月。7年前。帰国直前のエントリー。文章が若いわ。


過去何回も書いているけれども、応答責任論で修論を書いたんだった。
とにかくダイアログを回していくことで、問題は解決できるかもしれない。
解決できないまでも、社会をちょっとずつ良くできるかもしれない。
そんなことを考えたんだった。
応答の中では「吹っ掛ける」こともできる。極端な主張を行うことで相手の譲歩を引き出す手法は、世間でもよく見られる。
グリーンピースはこのアプローチの最たるものではないか。ラディカルエコロジー。

対立と対話が社会を変える。ラディカル万歳。
学生の頃はそういう物語を信じることができた。
最近はどうもあんまり、自信がなくなってきた。

対立は対話のきっかけにならない。議論が深まらない。
グリーンピースの振る舞いに、どれだけの人が共感したか。どれだけ彼らの主張を世間に押し込めたか。「熱烈な支持者」と「それ以外の人」はうまく混じり合ったか。
ラディカルさは今や、相手の陣地を奪わないかもしれない。

反目し分断されている、というのは今日的な話題でもあって。
ドーキンスとかシンガーみたいな超絶ビックネームでも営業に影響があるんですね。

最近思うんですけど。
僕らは以前よりも相手が許せないかもしれなくて、その「許せなさ」は、相手の立場を掘り崩そうと思い立つかもしれない。それくらい、結構危険なものかもしれない。
なんのために?たぶん、相手を貶め、叩き潰すため。
相手の尊厳と名誉を奪い取る。それはいわば、弱者の戦略といっていい。

あらゆる人のステートメントは検索され、抽出され、時には捻じ曲げられ、暴露される。
そんな世界でセレブリティが息長く体面を保ったまま勝ち抜ける戦略は、過去の発言の謝罪やしみったれた自己弁護なんてしないで、相手を貶め返すことなのかもしれない。
トランプさんみたいに。彼の場合は、ある意味で世界最強なのに弱者の戦略を取り続ける。
善悪や好悪は置いておいて、僕が理解したルールのゲームは、最近どうも壊れたみたいだ。

ところで「許せなさ」って本当に不思議な感情だ。
思うことはたくさんあるが、話を戻そう。


まず、ディープエコロジー的な立ち位置は、心地よさは感じるし共感もするけれども、僕は与しない。その理由は7年前のエントリー参照。最終的に、自らの基盤を掘り崩すからだ。
7年たった今でもこの結論が変わらなかったことを確認しておこう。
そして、こんにちの社会はもはや、ラディカリズム的な態度を取るメリットは失われたかもしれない。そんな態度を示しても相手の譲歩は引き出せないから。


あとは。もう少し前の話を回収しておこう。

前のエントリーでみたように、ドイツの緑の党周辺の環境運動はすごく成功している。
ドイツにはいったことないから、細かな肌感覚はわからないんだけれども、あんまり額面どおりに受け取れないこともある。
彼の国は脱原発に続き、「内燃機関つきの自動車」も廃止していくというニュースを見た。
これはさ、云っている意味がわからなかった。
「内燃機関つきの自動車」ってエンジンのついた車らしいですよ。
なんだ、たいていの車じゃねぇか。ずいぶんビビらせるじゃねぇか。
なるほどわーげんはこれからテスラになるということだな。

漸進的というよりも急進的に映る。どういうつもりだろう。
原発だって2022年だからやめるまで2年しかない。
勝算アリか、ハッタリか、二枚腰か、ピュアなのか。


そして冒頭まで遡るのだ。

林業にしても、実は同じような感想を持っている。
ペーターさんのお説はご尤もであるとして、どれくらいの林業家がペーターさんの林業に乗れるのだろう。「年間成長量の限界付近まで伐っちゃっている」ドイツ林業ははっきりいって、とっても先進的でインダストリアルな産業だ。
これと比べたら日本なんて開国前の江戸時代みたいなものだ。
ブレードランナー的林業が展開されている地(※うそです)、ドイツにあって、ペーターさんは馬搬という近世的手法をぶっこむのだ。

僕ごときが愚考するに、ペーターさんは多分、今よりも生産性を落としたいのだ。
そうしないと彼が大事にしたいものが守れないから。
もう少し言いかえると、生産性を上げたい誰かさんと戦っている。
さらに言えば、生産性向上委員会の生産性モンキーたちにムカついている。
推し量るにな。仮にそうであったとしたら、その気持はわかる。


でもそうであったとして、ペーターさんの戦いの機微はこの本の読者には分からない。
読者は「現代の森番」の言葉を字義通り信用するはずだ。
なるほど、馬搬は環境に優しいと。
林業の仕事は自然で働く仕事だし、それが滑稽だとは思われないかもしれない。

本は売れてしまえば正義だし、「そうではない林業」は厳しい目が向けられるのだろう。
そこまで睨んでペーターさんが執筆したかどうかは分からないけども。
ただ、この本で生産性向上委員会の面々が引き下がるなら、ラディカルな主張によるアプローチは有効だということになる。原発の話も内燃機関の話もまた、同様だ。


そろそろまとめよう。

この本は、多くの一般の方にも読みやすい文体であるし、森にでかけてみる気にさせるような魅力を持っている。「私たちに繋がる」森林や環境を大事にしようって思うだろうし。
でもこの本はそんな素直なものではないかもしれない。
この本の持つ「機能」を考えれば、そこには留まらないからだ。
以前のエントリーでの妄想に従えば、当然この本も彼の国では『枕歌』として機能する。
「共鳴」は、共通した価値観を持った人の間でしか発動しない。
「森の民ゲルマン」だ。
この本が彼の国でバカ売れした理由はそこではないか。どうでしょね。

そんなわけで。
個人的には、森さんが「現代の森番」でペーターさんを取り上げたのは大正解だと思います。それは単に、彼の営為が現代的な森番を表象していることだけでなく、過去繰り返された枠組みが再び出現した端緒なのかもしれないからです。
そして、これから彼の国で森やこの本を端緒としたムーブメントが興るのか、林業/木材産業がどんな風に変わっていくかも確認していきたいものです。

まず手前の身の回りからなんとかしろ、と言われそうですが。