10年前よりも家族が増え、米の消費量は月20キロレベルに近づきつつある。子どもたちが本格化したら更なる増加が見込まれる。末恐ろしい。世の米離れとはなんぞや?
3月まで越後の民であったから「こしひかり」を頂いていた。もちろんおいしい。しかし去年、「ささにしき」を食してしまった。あっさりとした食味。そのあと、余韻のように広がるほのかな甘み。そしてのどごし。
気がついてしまったよね。僕はふっくらもっちりなんて求めていなかった。そうだ、「新之助」を初めて頂いたとき、確かにおいしいんだけど、感動というほどではなかった。表現が合っているかどうかわかんないけど、僕はたぶん、淡麗辛口の米が好きなんだと思う。
ということで、宮城県から呼んだ宣教師より洗礼を受け、ささにしき派に改宗、隠れキリシタンのごとく、こしひかり派からの迫害を避けて生きていこうと思い立ち、新潟県を離れたわけだ。すまん。だいたい嘘だ。
とはいえ、今どき「ささにしき」なんてあんまり見かけない。そして、「ひとめぼれ」はもちろん、ささにしきでなくともごはんはおいしい。
我が家における米の消費量激増の主要因は大方、僕の食欲にある。肉体労働者にジョブチェンジしたため、とにかくお腹が空く。10代のようにお腹が空く40代。これは、デブまっしぐら・成人病予備軍ともいえる危険な徴候であろう。わかっている。でも仕方ないよね。
先の米の銘柄のくだりはいったいなんだったのか。いらないではないか。いらないだろう。ぶっちゃけお腹が空いていればどんな銘柄だっておいしい。僕は真理に到達した。わかってたんだけど。
米好きが米の生産者になっちゃったので、米作りって本当に重労働だということを実感している。うちは圃場整備されていないので、田植えから収穫まで、人力作業がほとんど。大した面積もないけど、なんだかんだ作業していると1年が終わるような気がする。うちが月20キロ食べたとして、年間300キロくらいの玄米は要りそう。
本来、どの家でも1反くらいのライスフィールドを抱えているべき(パン派の方は麦畑をどうぞ)だと思うんですけど、そういうわけにはいかないので、当面、貨幣経済バンザイという結論でよいのかと思う。
米への愛着が深まる昨今。米の研ぎ方について土井善晴さんの動画を参考にするようにもなった。ほんとうにあの人の作るご飯はおいしそう。
新採用のころ、水が透明になるまで研ぐだとか、いや研ぎすぎは栄養が落ちるだの、旨味が消えるだの、飲み会の場で沸き起こった先輩諸氏の激論が印象に残っている。
越後の民はたぶん、こと米となると相手が許せない。まさに米を米で洗う激闘。当時、当方は日の浅い流れ者。淡麗辛口の清酒を飲みながら、激論の行方を見守るしかなかった。
結論が出たのかも覚えていないし、そもそもどうやって帰ったのかも覚えていない。誰も覚えていないだろう。
土井さんはスマートにこんなふうにおっしゃっていた。今時分、みなさん栄養不足を気にする必要はないですよね、ぬかの臭みを取るため、研ぎ汁が透明になるまでよく研ぎましょう、と。納得。
ということで、寝る前に研ぎ汁が透明になるまで丁寧に研ぎ、鍋に空け、適量の水を加えて浸水させる。起きたら鍋に火をかける。吹いたら弱火にして13分。10分ほど蒸らして出来上がり。これでね、どんな銘柄であれ、雑味や臭みのない十分においしいごはんが食べられる。
歳を取ると調子が悪くなって、あんまりごはんが食べられなくなるかもしれない。というか、炭水化物の食べ過ぎがそもそも身体に悪いんでしょ。いつかお腹いっぱいごはんを食べなくなる日が来るのかもしれない。それはけっこう、悲しいことだ。
仕事から帰って、すごくお腹が空いていて、焼き魚とかみそ汁やなんかといっしょに、ごはんを頬張って、飲み下す。からっからに喉が渇いているときのビールみたいな。ニーズが満たされる実感がある。幸せの源流がたぶん、この辺にあるような気がする。
それが身体に悪いって言われてもねぇ。いつまでも、少しのおかずと大量のごはんをほうばっていきたい。身体が欲している限りは。