君はいつも「水が近い場所」に住みたがるよね、
妻にそう言われたことがある。結婚してから何回目かの引越しで言われた。
考えたこともなかったから、びっくりした。
今年、井戸を掘った。というか、掘ってもらった。
田んぼ用の井戸。去年みたいな日照りだとさすがに困る。
結局、この井戸は当たらなかった。ハズレだ。
でも、今年はなんだかんだ雨が降ってくれて、順調にうやむやになっている。
簡易な打ち抜き井戸だから、残念ながら物理的に僕はそこに入っていけない。
さて。
『平和と愚かさ』東浩紀
刊行されてからずいぶん経ってしまった。
たくさんのひどいこと。そのいくらかは、無自覚に引き起こされる。
同時に、無自覚だからこその平和な時代、ということでもある。
平和を覆す種が、丁寧に敷き詰められた土地を僕らはいま、一歩一歩踏みしめ歩く。
団地の比喩は面白かったし、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』との接合も面白かった。
大事なことは団地の下、井戸の下にある。終章にもあったけど、大事なことは文字にならないところにあるのかもしれない。
単なる両論併記を越えていくには、想像力といくらかの仕掛けが必要なんだ。
ホーチミン市の話があった。ここではサイゴンと呼ぶことにする。
僕としてはこの本のなかでいちばん馴染みのある場所だから、少し興味深く読んだ。
そう。たしかにサイゴンには不思議な明るさがあった。
彼らにだって、後ろ暗い、鬱屈した思いはあるだろう。
でもサイゴンの強すぎる光は、その影を消してしまった。
今でもよくわからない。あの明るさの正体について少し考える。
戦争証跡博物館の展示品。障がいを得てしまった人が使う、不思議な車椅子。ドンコイ通りに座り込む物乞いの親子。ブイビエンあたりでよく見る、外国人の彼氏をつれたベトナム女子。退役軍人会っぽいアメリカ人のバスに群がる売り子たち。
僕が見た、いろいろな不思議な光景。慣れてしまえば気にならなくなる光景。
この本を読んでいて、フラッシュバックのように思い出した。
そんなことを思い出していたら、打ち捨てた井戸の鉄パイプをつたい、首尾よく井戸の底に降りられたみたいだ。
10数年後の今から見ると、文章はすごくうわぁ、ってなるけれど、まあしょうがない。
当時の僕は、知ることが大事なことだと思っていたようだ。
でも、何かを知りたいという欲求はほとんどなかった。目的がなかったんだ。
行ったら知ってしまった。知ってしまったことを消化するために書き連ねた。
知ることで少し強くなれる、と無邪気に思ってもいた。
東さんがダークツーリズムっていっていたのはいつごろだったか。
触発されたわけじゃないと思うだけど、ああダークツーリズムってこういうことなのかな、と旅をしながら思った。
当時案内してくれたカンボジア隊員の友人は、なんだかとってもできた子で、本当に僕の時間の許す限り見守ってくれた。なんだかとってもよい時間だった。
知ってしまったら無邪気ではいられなくなる。当たり前のことを知った。
団地の話。コンダオ島は、大量死と大量生の場であったのかもしれない。読みながら思った。リゾート開発がなされ、かつての大量死の現場は、そのことを知らない旅行者と、彼らを支える人が生活する場となっている。
そんなことを考えていたら。
僕の住んでいた場所はどうだったんだっけ。今さら気になりはじめた。
カマウ省ウミン県。ウミンハ林業公社。
僕が2年間生活した場所。
カマウ省は、メコンデルタ南端。
戦争時は枯葉剤が撒かれたとされる。
一面に枯れたマングローブの林が広がる写真を見たことがある。
僕がこの地で過ごし始めた2011年にはもうその面影は見られなかった。そもそも僕は、林野庁とJICAがやってた大規模森林火災の復旧プロジェクトの一環として派遣された協力隊だった。僕が行った頃はすでに山火事の面影もなく、緑の地平線が広がるウミンだった。
現地樹種のメラルーカは最短8年で伐採できる。だから、僕が訪れたときは火災の発生からすでに2サイクルくらいは回っていたんだな。
火事はすでに遠い昔だった。戦争はもっと遠い昔だ。
だから知識として枯葉剤で森林が枯れたことは知っていても、生活者としての僕には結び付かなかった。2年間、ポンプで揚水した地下水でシャワーを浴びたけれど、枯葉剤のことなんてこれっぽっちも考えなかった。
飲み水は買っていた。ベトナムでは生水は飲まない。でもシャワーや洗濯は地下水だった。ゲストハウスのポンプはしょっちゅう壊れる。停電すればポンプも動かない。
だから「地下水がどこから来たのか」とは考えなかった。
停電が続けばトイレの流し用の溜め水でさえ頭からかぶった。心地よかった。
どこからか地下の水脈を伝ってやってきて汲みだされた、僕を洗い流す水。
そのありがたみを切実に感じていた。
そこから離れて10年以上経った。
改めて調べる。すごく簡単だった。米軍の資料は充実していた。
僕が住んでいたウミンにも、確かに枯葉剤は撒かれていた。
住んでいたとき、戦争の話はほとんどしなかった。
同僚のおっさんは、戦争のとき銃をもってカンボジアに行ってたって云っていた。まるで先週熱海に行ってきたくらいの軽い感じで。カマウにはクメール人もたくさんいるから、そんなもんか、と思っていた。
でも、それは違うよね。
クチを想像する前に。カンボジアを想像する前に。僕が住んでいたこのウミンが戦場だったということを想像すべきだった。
2年間もその場所に住んでいて、ぜんぜん結び付かなかった。知っていても考えなかった。
あんなにこの場所の人々に囲まれていたのに。
そのことに、僕は愕然とした。
僕は2年間、(浴びれる日は)毎日地下水を浴びていた。でも、その水はどこから来たのか、一度も考えたことがなかった。
たぶん、恨みつらみは、強すぎる光とむせかえるような高温と湿気で全て腐敗して、いつも昼過ぎに訪れるスコールで洗い流された。
あとに残るのは、漂白されたきれいな残骸と、いまそこにいる人たち。
やっぱり団地の比喩と少し重なるように思えた。
戦後生まれた、戦争を知らない若者たちが、サイゴンの街を、ウミンの田舎道を闊歩する。
彼らの多くは僕の先生が体験した、戦争の惨めさを知識としては知っていても、そのありようは知らないだろう。そこには断絶があると思う。
匂いだ、といっておきながら、ついに僕はその匂いが嗅げなかった。
僕が嗅いだのは、泥の匂い。あとは、ドリアンと生活雑俳的なものが混然一体となった市場の匂い。肩を組んだ友人のなんとも言えない匂い。停電が続くと湧き上がってくる僕自身の悪臭。今そこにある匂いは、僕の嗅覚を完全に埋め尽くした。
断絶というよりも、圧倒的な「今」がそこにあった。
僕はふだん「楽しい」って絶対に言わない。そういう種類の人間なのだ。
スイレンの収穫/泥の中にあること 2013年1月6日
10年前のエントリーを読みながら振り返ると、あの2年は確かに楽しかった。
僕は傷ついた場所にいたけれど、それと知らず、けっこう楽しく暮らしていたのだ。
僕は平和の中にいた。でも、平和の意味は、平和の中では分からなかった。
その場所を離れて十数年して、気がついた。
ベトナム人は毎日忙しい。早朝から屋台でフォーやらおかゆやらを食べないといけないし、四六時中誰かに電話して「メシ食ったか」って確認しないといけないし、バイクぶつけて警備員と罵り合いをしないといけないし、汚い水路際に生えている空芯菜を摘まないといけないし、コーヒーを飲みながらハンモックに揺られないといけない。夕刻になれば知人と鍋を囲み、クソまずいベトナム焼酎(個人の見解です)を一気飲みしないといけない。
どうも、断絶なんて話題になりそうな雰囲気がないのだ。
悪の愚かさについて、考える隙間がない、というより、そもそも思考の対象として立ち現れない。その意味で、僕が見たベトナムは「考えないことの広がりとしての平和」に見えたんだよね。
明るすぎる光を離れて。この雑踏から離れて。彼らが井戸に潜ることがあるだろうか。
2年間しか住んでいない僕は想像ができない。
風が吹き抜ける日陰でよく冷えたコーヒーを飲んでいる風景しか想像できない。
でもクチの歴史ではそうなっている。彼らは密林に穴を穿ち、どこかに通り抜ける。
僕が数千キロ離れた西多摩の井戸からベトナムに行けたのだ。
彼らにしたら造作もないことだろう。