2008年6月26日木曜日

ブルーリボンの持続可能性

拉致被害者の方、およびご家族の皆様には衷心よりお見舞い申し上げます。
しかし、それと対処の仕方は全く別のものだと思われるのです。

ひとつには制裁を加えることによってどれだけの効果があったのか。
これが明らかにされていない。4年もそれを行っていたのだ。
なんらかの成果は示されるべきであろう。
制裁が「足りない」と言い募る側は、「足りない」にしても
国策をハンドリングした責任としてなんらかの説明がなくては納得できない。

もうひとつには、被害者は加害者になる。
過去の(といってしまうと語弊はあろうが)犯罪は問われるべきであろう。
しかし、その問責によって新たな被害者を生じさせることは道義的におかしい。
かの国での窮状はこの国にも届く。
物乞いをしてい」るこどもがいる。餓死してしまった人がいるという。
体制が悪いとか、そういうことはあるにしても、
その生き難さの一端の手綱を握ったのはこの国であった。

拉致が問題であるとすれば、目的はかの国の体制の打倒ではないはず。
連れ去られた人々を返してもらうことであるとするならば
懲罰的な制裁を科す根拠はない。
強圧的であればうなずく人々であれば、連れ去られた人はもう帰っているはず。
それができていないということは方針自体に問題があったことを考えるべきだ。

繰り返すが、起きてしまった事件に関しては心より残念なことであったと考えている。
しかし、あえて言わせてもらえれば、テロ支援国解除は慶賀なことだ。
個人的には拉致問題も進展するのではないかとすら思われる。
そもそもコミュニケーションのないところに話は進展しない。
経済的な交流、と書くとなんかへんな感じがするけれど
交流はかの国の状況を可視化させる。
かつて社会主義国であった中国はいまどのようになっているか。
なにごとによらず、見えないよりも見える方がベターだと僕は考える。

最後に表題について
http://www.rnet.gr.jp/
活動を続けていくには資力が必要だ。共感した方は寄付をしたらよいと思う。
問題が解決していないのだから、彼らは活動を継続してくのだろう。
ただし、活動のあり方によっては自家撞着を起こすような気がするんだ。
被害者であることと被害者であることに固着してしまうことは別のことだと思うから。

2008年6月25日水曜日

歩く

林業関係者なので現場業務が多い。
今日もよく歩いた。

もう6月も終わりなので佐渡に移って3か月経つことになるのか。
まだまだよくわからない場所が盛りだくさんなので、歩くことは大切なこと。
今回は新規に施業管理を行う場所の選定。
新規開拓というニュアンスもあるのであんまり人が入らない場所へ。

わからない場所を歩くときには地図が便利だ。
普段持ち歩くのは5000分の1の森林基本図というもの。
ここには等高線が引いてあるため、地形を見つつ歩いて行く。
登山道であれば、迷うことは少ない。
でもそもそも道じゃないところを歩いているのだから今はどこにいるのか
というのは大切な情報だ。
佐渡にはクマもイノシシもいないので危険は少ないと思うのだけれど。
でもヒルがいる。これから雨がたくさん降ると思うとやだなぁ、と。

2008年6月18日水曜日

何が向いているのか

よくわからない。
月並みな悩みなのかもしれないけれど。
とりあえず4年間仕事を続けてきた。
今年になって仕事の内容が変わった。住んでいる場所も変わった。
たのしくは、ない。
でもそれはいいんだ。

僕は僕の感覚を信用しない。
よく変わるから。
さいてーだと思っていたことが実は心地よかったり
楽しいと思ってきたことが実はつまんなくなったり。
ふっと離れてみて、悪くない経験であろうとおもえれば、たぶんそれは悪くないこと。

相川は西を向いている。
太陽が海に沈むのが毎日見える。夏が近づいてきて、海の色が鮮やかになっている。
美しい風景が目の前にあるのに、それを素直に楽しんでいない自分がいるのが
ちょっとね。もったいないな、ボク、と思います。

考えてみればいつだって、僕は楽しんできたのだろうか?
なんだかいつだって客観的なんだ。楽しい風景の中にいたとしても
僕は僕が楽しいのかどうかわからなかった。
楽しいとか、幸せとかって自分の中でどういう感覚なのか。
正直僕にはよくわからないんだ。

楽、っていうのはあるね。寝る前とかね。

2008年6月15日日曜日

地震

大変な被害になっている。
山がぐさぐさに崩れたりとか本当に普段ではありえない光景が
テレビの向こう側で広がっている。すこし、一年前のことを思い出す。

7月17日。僕の誕生日。僕は柏崎にいた。
災害救援という名目で職場から派遣されていた。

僕が新潟にきたのは平成17年。16年の震災は東京で体験した。
だから、初めて被災地に足を踏み入れたのは去年が初めてということ。

不謹慎なことだけれど、道中、道がうねっていたりしてちょっとウキウキしている自分がいたね。
でも、柏崎について、倒壊した家屋を見て言葉を失う。

住んでいる人は後片付けとか、通常に戻るべくやることはたくさんある。
正直にはなすと、僕はちょっとカタストロフが見てみたい人間だった。
崩壊、というものがどのようなものであるのか。
僕は別に物見悠山にいったわけじゃないので、できることを見つけて
できるだけやらせてもらったつもり。十分であるとはとても思えないにしても。

結論からいうと、崩壊した場所にいるということは、
とても消耗することだ。不快なことだ。そう思った。

ゴミの収集車がこなくて、残飯が腐っていくのはどれだけ不快なことか。
不便さを強調してもきりがないのだけれど、手が洗えないということはどれだけ不快なことか。
僕はこれまで想像できなかったこと。
僕と同じようなメンタリティの人が他にいるのかどうかわからないけど
普通の住環境で世界の終りを想像することはだいぶ違う。控え目にいって。

疲れることについて。
その場所でなんとかして生きていくには、当然かなりのエネルギーが必要だ。
「なんとかして生きていく」というのはすごく疲れることだろう。
僕は余所から来て余所に帰っていく存在ではあったけれど
その場に住んでいた人たちはこれからもそこで生きていくんだ。
ガレキを片づけて、家を直して。
その道のりの大変さは結局その場に住んでいない僕にはわからないんだろうな、と思った。
共感、という言葉の限界というか。そのようなものを感じた。
だから、崩壊を想像することはできても、その場に居合わせても、僕には結局わからない。

わからない、ということは幸せなことでもあるんだろうけれど。
僕が言いたいのは、エアコンの中で「崩壊」を想像することは実際の「崩壊」とは
だいぶちがうんだ、ということ。
大きな不幸に対してお見舞い申し上げると同時に、一刻も早い現地の復興をお祈りします。

2008年6月3日火曜日

相川という街に住んでいる

新潟県佐渡市。佐渡島の西側に住んでいる。
本土、新潟県の糸魚川市から4月に移り住んだ。

相川といえば、佐渡金山。
なかなか山が厳しく、背面に海を背負っている地形上、
猫の額のような土地を分け合って人は住んでいる。
金山がはなやかなりしとき、相川には10万人もの人が住んでいたとのこと。
今の佐渡市の人口は一島含めて7万人を切っているので、想像ができない数字です。

町並みもなかなかよい。
北前船の寄港地でもあった関係から関西、京都とのつながりがあるらしい。
確かに寺社仏閣が多く、関連があるのかもしれない。
島の人と話していて意識することはないけれど、町並み、小路などがちょっと古くて
よい風情がある。
住んでいる人はかなり高齢化していて、美しい町並みも実は空家が多い。
壊れつつある街。そんなイメージを持ってしまう。
けれども、この島の人は花を愛す人たちだなと思う。
お墓やお地蔵さんには必ず、新鮮な花が活けてある。
僕は余所から来た人間だから、別になくとも何とも思わないけれど
こういう風にしっかり手入れしてあるのを目にするとその心性にはっとしてしまう。
自分にはない心性だな、と思ってしまう。
僕が悪いということではなくて。ものぐさではあるけれど。

5月からはこの島は花の季節。今はカンゾウの花が見ごろです。