2013年6月12日水曜日

エンパワーメントとかいう上から目線と、

訓練中の講座にボランティア・スピリットというものがある。ボランティアをするためには魂を「かん養」しなければならないなんて、タチの悪い冗談を一体誰が思いついたんだろう。
"attitude"なら語れる。でも"spirit"なんて語れない。僕の中にそんなものはないから。



ケーススタディ。どうも、もう少し書きたいことがあるらしく。
タイ族とモン族の人はベトナムにもラオスにもいる。焼畑をしながら山の上にいる民族・移動する民族だったんだと思う。移動する民族は現在ではなかなか居場所が与えられない。だからベトナム政府、ラオス政府の双方とも彼らを固定させる政策をとっていて、JICAのプロジェクトが越羅双方で実施されている。「移動する人々の固定」は、それまでの生業を奪うこと意味し、生計支援は「代わりのもの」を用意する。


ただ、ね。紹介してきたように、少数民族の人の文化や作り出すものは観光資源として機能しているものもあって、彼らのエンパワーメントって大事だなと。思っているところで津田マガを読んだ。開沼博さんと津田大介さんの対談。エンパワーメント!と、思っている僕らの視線はどうなんだろう、と考えた。
以下、津田大介「メディアの現場」Vol.70
アカデミズムかジャーナリズムか ――博が実践する「闇の中の社会学」より

この「無縁」という言葉はもともと、必ずしもネガティブな意味ではないんですね。中世日本社会の支配構造の枠の中で生きた人たちを「有縁」[*37] の人々だとすれば、その枠外で生きた人々――芸能や宗教に携わる者、遊女、博徒、医者や歌人といった特殊な技能や社会的立場をもつのは「無縁」の人々だと網野は主張しました。「無縁」の人々は貧困や差別と隣合わせの中で生きる存在だった一方で、後世に残るような文化や事件、社会変革を起こしていく存在――社会に新しい動きを喚起するクリエイティブな存在でもあると言うんです。

日本における無縁の人々は少し意味が違うか、と思ったけれど開沼さんは現在の派遣労働者や風俗産業で働く人にも現代的意味で「無縁の人々」を拡張しているので、たぶんアリでしょう。場所的にも社会的にも十分居場所が確保されていない意味で、少数民族の存在もどこか重なる。

彼らがクリエイティブか。少数民族の人たちが作り出す色鮮やかな織物は、僕の目を魅了する。いまどきオシャレな「ベトナム雑貨」と呼ばれるものは、彼らの創りだしたものだったりもする。売っているのはキン族だったりもするんだけれど。たくさんの民族の特産品の総体が「ベトナム雑貨」なんだぜ、というごく当たり前の事実を忘れがちだ。

外人向けの雑貨屋や本屋に陳列されているものはエキゾチックなもの/エスニックなものだ。目を惹くものがベトナム人と外国人では違う。「固有のもの」に価値を見出すカスタマーは「固有のものの作り手」に力を貸すかもしれない。「無縁の人」が「有縁の人」に、つまり普通の人になることがいいことなのか。あるいは「固有の人」として歩んでいくのか。
サパで出会った「ベトナム語よりは英語のほうが喋れるわ」とのたまうモン族のおばちゃん。無意識に彼らは「固有の人」になりつつあるんだと思うな。



そして開沼さんはこんなことも云っている。
…世間で「ダイバーシティが重要」「社会的弱者のために」なんて叫ばれるときに、「そこにある知の形式自体が強者の側にないか?」という気がしてならないんです。「◯◯に賛成だ」「◯◯に反対だ」みたいに世論を二分する問題があったら、ある人は弱者のためを思って反対・賛成だと意思表示するんでしょう。でも、そもそもの議題設定自体が「なんとなく上から語りたい人」のためになされているのではないか、と。なぜそうなったかというと、表面的な議論にとどめておくほうが、多くの人が「乗れる」からです。
「ダイバーシティが重要」を「バイオ・ダイバーシティが重要」に置き換えると、そのまま僕が思っていることになる(「考えてみて、やっぱりそれには乗れないと言ってみる」)なあと思った。生物多様性は重要らしいですはい。


…その昔、途上国にいって服をばらまいて「援助だ」とのたもうた豪傑おばちゃんにであったことがあるのを今思い出した。もちろんそれも援助かもしれない。
いずれにしても、エンパワーメントっていう言葉そのものが「上からのまなざし」を持っている。技術や資金を持って、弱者を助けましょう、と。
「乗れる」っていうのも大事だと思うです。ヒルズに住んでるドナーであろうとタックスペイヤーであろうと。原資がないと支援もできないから。ただ、「乗せる」段階で捨象されているものがあって、かつその捨象されたものが大事であったら支援の意味はない。

他の国の途上国援助の状況とか小耳に挟むんだけれど、戦略的な援助が大事だなんて言われたりもするし、あんな国やこんな国の辣腕的援助の話などみたり聞いたりして、すげぇかっこいい、と思ったりもします。「乗れる」話にするには「見返り」あったほうがそりゃあいいんだろうとは思うんだけれど、それはもう援助じゃなくて投資じゃね?と思う部分もあったりして、なかなかこの辺は難しい。
だから程度問題なのかな、以上のことがなかなか言えない。

弱者というステレオタイプを措定して援助します、はとってもわかりやすいし「乗れる」。でも乗れない人もいる。

協力隊のいいところは2年間「無為に」ずっといることだと思う。もちろん「有為」に過ごした方々も大勢いると思う。彼らと生活を共にすることは、例えば、旅行はもちろん、4泊5日の植林ボランティア!とかで飛来される方々とは違う。ハナから表面的な議論にもとどまれないわけだ。

ヴィヴィットな解決をもたらすスペシャルなボランティアもいるだろうし、僕みたいなボンクラなボランティアもいる。解決に結びつくかどうかは別として、より近い距離で彼らの声を聞いていて、それがまた日本に還流していくと考えると悪くない話だなぁと思う。
語られている「乗れる話」にヒビを入れるんじゃないかなぁ。少しずつ。