2013年8月24日土曜日

『おどろきの中国』を読みながら、カンボジアのことを考える

いつもどおり、作品の内容には一切触れずに書いていく読書感想文。

ー清水に関しては急激な右旋回はしなそうだな
御師の言葉。リトマス試験紙的につかえそうだ、という程度のニュアンスであったと記憶している。定かではない。いったい僕を何に使うつもりだったんだか。
ちなみにうちの研究室は『前衛』が置いてある、左旋回の弧を描き続ける永久機関のような異質な場所であった。


おどろきの中国 (講談社現代新書)
講談社 (2013-02-15)
売り上げランキング: 5,920

本作は『不思議なキリスト教』に続く、橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司の鼎談。ちょうど2年前、派遣前訓練の講座で橋爪大三郎が講師として招かれていて話を拝聴することができた。あらずいぶんなビックネームを呼ぶんだな、と思って聴いてたけれど、とても初歩的が多くってあまりおもしろくなかった。
なまいきいって橋爪せんせすみません。でもとなりのひと、寝てました。

例えば日本人は無宗教か、とか。日本人コミュニティで暮らしていると疑問にも思わないことが海外では問われたりもする。だからこういうことを考えておいて損はない。
この本では大澤得意の「第三の審級」にうまく話が落ち着いて、きれいに終わったね、という印象。そもそも「第三の審級」はキリスト教と折り合いがいい。というか、キリスト教そのもの。そして宮台の沈黙が不気味。
講座もこれくらい突っ込んでくれると面白かったのに。




さて。
感想を述べると、僕はやっぱり大躍進政策とか文化大革命とかピンと来ないわけです。革命やら躍進やらずいぶん大仰じゃないか、キミら。というのを別にしても。ウィキ読んでもどうも焦点があわない。大変だったらしい、という小学生的感想なら出てくる。
一方、中国(というより漢民族)は国家(あるいは民族)というよりはEU的だというのはなんだか分かる。

文化大革命で父を批判することは、儒教の「孝」を否定することだという。たくさんの血が流れたとともに、内なる変化も起こっていた、それが、今に至る社会主義市場経済の成功という結果をもたらしていると。ふぅん。
伝統的に官僚機構と家族秩序の二元的社会だった中国は、政治的に一元的社会に変化した。宮台は「毛沢東は「政治に」限界を画してくる文化を政治的にシフトさせる可能性を考えて実践した」という。

そして毛沢東が率いていた(というと変なんだろうな)紅衛兵ってなんだかクメール・ルージュの若者たちと印象がかぶるるな、といつもどおり僕の思考は徐々に脱線していく。父親を批判したことも含めて。もちろん、つながりはあったわけで。マオイズムなわけで。なんていったって。


大発展を遂げた中国と、カンボジア。どうも違う。今の中国を見ていると世界の工場で最大多数の民族を抱えて自信満々のようにみえて、かたやカンボジアはのんびりしていながら、どこか陰があるような。
僕がみた、ような気がする陰は、壊してはいけないものを壊してしまった、ある種の呆然自失の様態だ。そんなことを考える。父親を批判するには当然、代わりとなる「父なるもの」が必要で、中国であれば毛沢東、カンボジアならポル・ポトだ。
僕の見た影については、「2つの風景」を参照のこと。

中国とカンボジアの大きな違いは、カンボジアが最終的に「父なるもの」を打ち倒したことだ。毛沢東は逃げ切った。
父親を批判し、打ち倒した人が、それまでの自身の拠り所であった「父なるもの」を打ち倒してしまったこと。「総括」っていうとなんだか左翼っぽくていい感じですけれど、実態としては冗談じゃないことだと思います。ポル・ポトの処刑は快哉を叫ぶことでもあっただろうけれど、とても皮肉なことだし、今に至るアノミーと無関係とはいえないだろう。
代わりとなる新しい父親が必要なのか。そもそも彼らは「父親」になれるのか。
僕も父親じゃないんで余計なお世話でしょうけれど。

いずれカンボジアは発展の季節が訪れるのだろうか。そんなところにこんな記事。
カンボジア人口1400万人…増加率は年1.46%
カンボジアはこれから人口ボーナスのステージに突入するようだ。そうしたときに、カンボジアはうまく発展の軌道にのることができるんだろうか。そして今後の中国はどうなるんだろうな、と思う。けっこうほんとにわからない。


因みにベトナム人は中国嫌いです。これはある意味わかりやすい。古くは朝貢関係にあったわけだし、そして社会主義お友達でもあったし、最近は中越戦争したり領土問題を抱えていたり。まさに恩讐の間柄ですね。中国に対抗した人が英雄であったりもします。一方で中国のアクション映画とかみんな大好きです。カンフー映画とか、4分に一回くらいドンパチしてるようなやつね。バスでよく流れています。

中国の何がダメなのさ、と聞くと、輸入食品が安全じゃないとか、領土問題とか(中越間には南沙諸島の帰属をめぐる紛争があります)日本とよく似たことをいう。逆にそれがなければきっと是々非々でやっていくんだろうな、というくらい割とサバサバしているのがベトナム人。ベトナム人は戦前の日本軍の侵攻を忘れてはいないし、戦勝記念日というと日本が降伏した日のことを指しますし、そもそも数少ない祝日だ。
一応、お前らが攻めこんできてなぁ、という話もたしかに承りましたが、それで嫌な思いをしたことはない。彼らはフランスにもアメリカにも悪感情をもっていないし、その辺は国民性なのかもしれない。


日本と同じように(人によっては違う!というかもしれない)、歴史的にはベトナムも日本も華夷秩序の一部として織り込まれていたわけです。廃されたとはいえ、ベトナムでも漢字は使われていた。
日本でも読み下し文でしか読むことができないなりに、漢詩やら歴史文物や文化は親しまれていた。果てはKOEIの「三国志」が絶えず新作を出し続けていられるのもやっぱり、この国が中国の歴史に対し強い関心を抱いていた証拠だと思う。
本書でも指摘されていることだけれど、戦後の彼我の関係性はそういった長い長い歴史からいえばちょっと毛色が違うモードであるとは言えるかもしれない。

こういうのって、すき/きらいではもうどうしようもない関係何じゃないかしら、と思いながら、僕は話を聴いていました。敬して遠ざけるにしても、喧々諤々の議論をするにしても、お隣さんであることには変わらない。
時代にはそれぞれのモードがあって、社会党的なものがリアリティを持っていた時代もあるし、今みたいにあれ、あいつ息してないんじゃね?などと言われる時代もある。
今ではその主張にピンと来ない。それは仕方ない。ダサくなってしまった。僕を先生がみたらやっぱり「シミズは右旋回した」というんだろうか。よくわからない。


ウェブを徘徊していると、ともすると、相手の消滅を願うところまで憎悪が到達している感じもして。デモでもいいけれど。こっちとしても、いい気味だぜ(ゲス顔)みたいなことを考えないわけではないんだ。もちろん。
でも「相手の消滅」はありえない。「共産主義革命」や「武器の放棄による平和」がリアリティを持たないのであれば、それと同じくらいリアリティはない。こんなに電子空間上で身近な怨詛の声に溢れているのは、間違いなく気に入らん相手が消滅してないことの証左だぜ。

こういうゲームは落とし所を作れない奴が負けですし、落とし所なんて考えずに全額ベットするような奴に僕は同意しないし、振り回されるのもごめんだな。排斥にベットするのか、あるいは武器の放棄による平和にベットするのか、っていうベクトルの違いはあるれど、「社会党的なるもの」と「しばき隊的なるもの」はどこかよく似ている。
どこか孤高で、見下ろしている視点だ。いまのところ、そういう立ち位置に居たことはないし。

んだからね、どんな深い奈落があったって、埋める作業を僕らはどこかでするんだと思うな。いずれかけ直さないといけないボタンがあると思いながら、対岸をみるのが大事なことではないかと考えます。
そして、その意味では日本人にとって示唆に溢れている本だと思いました。

と、なんだかきれいにまとめてみた。