佐渡には能舞台がたくさんあるんです。
渡越する前にも3年ほど佐渡に住んでいた。でも行かなかった。
今回は行った、というよりもお手伝い。
高校の時分、課外学習で能狂言を見学にいった。開始後しばらくして、後頭部を強かに殴られたのが最期のイメージ。客電がつくと同時に目が覚めた。悪いやつがいるもんだ、まったく。
なまなかな気持ちで行くと、再び記憶を失うに違いない。
まあ、そのように二の足を踏んでいたわけです。
8月もお盆を過ぎたあたりからは少しずつ、夜は涼しくなってきた。夕闇が迫るとともに、徐々に虫が鳴き出す。そのうち薪に火が灯り、辺りの闇を払う。
演目は狂言の「舟船」能は「羽衣」、そしてコンテンポラリーダンス。
ああ、「羽衣」は三保の松原世界遺産登録おめでとー、ということで決まった演目だそうですよ。
「舟船」は太郎冠者に扮した男の子がなんともかわいいなあ、と思ってみてました。すっげー練習したんだろうなぁ。今夜はごちそう食べてもいいし夜ジュース飲んでもいいぞ。寝る前に歯は磨けよ。
そして「羽衣」。これ、高校生のときにみたやつじゃね?薄れゆく記憶の中で、天女がぺこん、と袖を頭に載っけるのを見たような。
以下、復習。
やっぱりなんでも知ってるウィキ先生。Wikipedia-能楽 ほほう。
地謡や鼓、笛と掛け声が複雑に折り重なる。圧巻。これはオペラですわ。変拍子や裏拍満載、プログレかと思いながら聴いていたんだけれど、移り変わる様を眺めるのは単純に楽しい。徐々に楽器と声が交じり合い、乱れ合う様はインプロヴァイゼーション。場の盛り上がりとともに調子が上がっていくのは、なんだかジャムってるみたい。
小面を着けた天女をしばらくみていると(違う、それはじいさんだ、と分かっているものの)だんだんとじいさんのイメージは後景に遠のき、消える。不思議だ。せくしー、とは思わなかったけれども、少なくともある瞬間からどうでも良くなるんだな、と思った。
そんなことをいえば、幼稚園のころからそんなことは知っているはずなのだ。その指はまるまる太ったおじさんであることは見ているけれど、始まってしばらくするとおじさんは消え失せ、ぶたさんだのきつねさんになってしまうんだから。
最近観劇をしていなかったせいか、自分の意識の変化が妙に新鮮。天女の立ち振舞いや踊りはどこか傀儡のようにぎくしゃくしているようにみえて、やっぱりこの場は普通でない世界なのかと思う。ここは異境だ。
ちなみに天女役のじいさん、復習の過程で津村禮次郎さんという方だということが判明。ビックネームでした。そりゃ終演後に先生、先生、と取り巻きの人が群がるわけで。
演目は終わりに近づき、徐々に鼓・掛け声もまばらになる。高まったテンションが落ち着く。と、反比例するみたいに虫の音の大合唱が場を覆う。現実に戻る。はっとした。
高校の時に行ったのは宝生院能楽堂。だと思う。都内の多くの腐れ高校生は行ったはずだ。昼寝にな。
能楽堂は完全な室内だから気にならなかったけれど、ここでは簡単に意識が現実に帰る。現実と異境の境目が野外ではとても薄いのだ。
男性が女性の形で踊るっていうのは傍で考えて異様ではあって、ちなみに先頃挙行した戦隊ショーにおいてもピンクレンジャーの中身は半裸中年男性であって、傍で見ていてやっぱり異様だと思った。あとキモい、とも思っていた。
これは、なんだか異様なのか。そんなことを考えていたらコンテンポラリーダンスが始まった。森山開次さん。たぶんいけめんでしたね。目悪くてよくわかんなかったけど。
こちらも存じ上げなかったけれど、有名な方らしいです。
テーマは「羽衣」から着想を得たとのこと。先の津村さん(素面)が黒のイメージ、森山さんが白のイメージを纏い、踊る。演奏は鼓、琴、尺八と掛け声。
森山さん、白のイメージということは明らかに天女を意図しているわけです。最初はうわーワキ毛がねースネ毛もねー(ゲス顔)と見てたんですけれど、やっぱり演者がどういう属性を持っているのかは徐々に意識から消える。もちろん、一ミリの贅肉のない筋肉とかすげぇな、とは思いましたけど。
舞いはとても大きく、しなやかで美しい。でもそれは中性的というかキメラというか、日常生活ではお目にかかることがない種類の、異形なものだ。奇妙な美しさ。
何を思い出していたのかというと、Antony and the Jonsons。
だからマツコじゃないって。何度言えば分かるんだ。
彼(彼女)のやさしく力強い声は強く人を引き付ける。同時に彼(女)のパーソナリティもまた、確実に人を引き付ける要素なのだろうと思うのね。クソみたいな差別主義者的発言でしょうけれど。
本人であることは意識しなくなる/パーソナリティなんか関係ねぇ、っていったそばから申し訳ない。今回見た、能やダンスは小道具なり演者の表現がパーソナリティを引き剥がし、覆い隠したのに対し、アントニーは特に隠していなくて、とても女性的でやさしい性格が伝わってくる。それをとても豊かな低音を含む声と、独特の波長で歌い上げる。
もし彼(女)がトランス・ジェンダーじゃなくて、ごく普通の女性として生を受けたとしたらこんなにも人を惹きつけただろうか。その来し方や声を含めて、きっと"gift"なのであろうと。
差別主義者的男権主義男性(そんなでもないと思うんだけれど)からみると、異形であり、かつ美しいな、と思う次第です。
あと、舞台という非現実的な場所にある以上、異形なのはごく当たり前なことであるように思えた。ここは異境なんだから、なにがあってもおかしくはない。
現実で半裸中年男性を垣間見てしまうからキモいのだ、そうだそうだ。
舞台が終わってしまえばまた、虫の声。
舞台は無人になり、そのうち薪の火も燃え尽きて、払われた闇もじきに戻ってくる。
作り出された異境は、あっさりと閉じる。
お祭りは終わらなければいい、と子どものころから思っていた。でも実際には無尽蔵に体力と時間があるのはヒッピーかバカ大学生くらいのもので、大抵の人はくたびれてしまう。薪にだって限りがある。私としても偉大なる社畜としての明日が待っている。
それでもわざわざ、人は野に明かり放ち闇を消す。非日常な空間を作り出す。
非日常に相応しい、少しばかり豊かな時間を過ごすことができたかな。
しゃんしゃん、また来年ね、という感じで。