2013年10月4日金曜日

やまもと先生に触発される

TTPのことはよく知らんのです。自分林業なんで。

元切り込み隊長ことやまもといちろうさん。投資家だったりコンテンツ制作だったりしている方だったような気がするけれど、多様な芸風でまったく感心しきりです。

TTP関連の農家の主張がまったく同意できなくて萎えるーやまもといちろうBlog
ふぅむ。

オレ、ハイソなベトナム暮らししてたから、7,000ドンじゃなくて12,000ドン/kgくらいの米買ってたな。なにしろハイソだったから。
12,000ドン/kgというと60円/kgくらい。今は400円/kgくらいのこしいぶきを食してます。高いな。こうして考えると。
それはそうと、今年の新米は店頭に並んだかしら。



芸歴10年ちょっとの元都民としては、都会の人がこう考えてもおかしくない、というか、実際そうだそうだ、と思ってしまうところではあるんです。
読んでいて思い出したのが最近は歌手業なんかよりも検察との大ゲンカが印象的な八木啓代さんのエントリー。

愛国と原発とTTPー八木啓代のひとりごと

両者、農家とか農業者ではないところから意見を述べている風情に好感が持てます。擦れっ枯らしじゃなくて。普通の人の感覚はたぶんこんな感じなのだろうと。
思うのが、都市と農村の関係を巡る議論は、今後やっぱりタックスペイヤーに依存せざるを得ないだろうということ。平たく言えば、都市が農村の今後を左右する。都市が農村を維持するのがイヤならうっちゃられるし、称揚までいかなくても理解してくれるのならば維持される、みたいな。

生殺与奪権が都市にあって農村かわいそうとも思うけれど、なぜ都市は都市になったか的な、ほんのここ50年の来歴を考えるだけでも農村は本来あんまり強いことは言えないかもしれません。
なぜ上野ゆきの就職列車なんてものがあったか、とか、それは満蒙開拓団とどれくらい意味が違うのか、とか。たとえばの話です。あんまり面と向かって「ワレワレは被害者である、つきましては云々」という主張は、なんだか昨今の某国と某国の関係の相似形に見えます。



奇しくもやまもとさん(と農協新聞)が日越間お米貿易交渉について言及されてますが、ごはん党日本支部青年部としてのベトナムごはん調査レポートは下記の通り。刮目して読むべし。
めしにかかる偏執的愛情(追記あり)
あのですね。工夫次第で日本の方々も美味しく頂けてしまうと感じました。これが。困ったことに。


そして、やまもとさんはこんなことを仰っています。
地方経済が、非都市圏が、という問題とセットになりやすいんですが、そもそも助成金や補助金がないと成り立たない地方経済って、形を変えた地方への所得移転や公共事業と一緒じゃないですか。道州制どころではありませんよ、これは。」

返す言葉が見つからなすぎてつらい。公共事業担当してるだけにつらい。
こんなことは関係者の方々は理解されていると思うんです。条文のどこにも書いてなかったとしても。改めて子どもに「ああ、王様は裸ですね」とクールに言われるとフリーズしてしまうわけです。このクソガキャ、から先の言葉が出てこないわけです。

「自壊していく農村」を体現しつつ、黄昏の地に屹立してみるというのもひとつの手でしょうし、なんだかそれかっこいいし。でも夕張市みたいなことになるわけです。あんまり住み良いとは思えない。
生活者としての叫びっていうと、つまりオラっちの米を高く買ってくれ、っていうのはむしろそのとおりで、JAの主張とも整合します。生産者団体としてみれば当たり前だし35円/kgなんて殺す気か、という主張はもっともな話です。
やまもとさんがいっているのは、だからといってそんな物言いは、あざとすぎるだろ、ということなんだと思います。70過ぎたじいちゃんがいうならまだしも、組織としてそれはないでしょ、と。たとえば都市生活者だって生活は苦しい。「窮状」という側面で進んで同じ土俵に上がるのは賢い戦略ではないし、リジェクト待ったなし、と思わざるを得ません。

「窮状」だけで話をするのなら、ベトナムの農家だってじゅうぶん窮状に喘いでいます。ベトナムの一人あたり年間GDPは1300ドルくらい、「米どころ」メコン・デルタにある僕の住んでいた村で640ドル、貧困層で300ドルくらいでした。年収3万円とかの人たちに対して、日本の農家はほんとに「窮状」で伍していこうと思っているんでしょうか?
あるいは「に、日本の中だけの話だ(震え声)」とかいうと、よけい馬脚を表しかねません。もしキロ35円の米をつかって牛丼を売り出して、都市部貧困層の窮状が救われてしまったなら。窮状を窮状で洗うファンタスティックな泥仕合が容易に目に浮かぶわけです。
どうも誰かを説得する方法として、あんまりいい戦略ではない。そんな感じがしています。


結局のところ、農村は都市におんぶにだっこだぜ、というのが今後のソリューションと呼び得ないソリューションになると僕は想像します。都市生活者だって農村滅びろ、と日々呪詛しているわけではないはずです。たぶんな。無駄なことすんなや、とは思っているでしょうけれど。このことに始終頭を悩ませているひとたちが、その辺のことは理解されているからこその、従前の所得補償や補助金や公共事業なんだろうと。
キツイ言い方をすれば、今農業を支えている農業者は、都市からみて「今後を担う人」だと看做されているかどうかも、実際怪しいと思うんです。兼業農家や年金生活者の農業者、などなど。

今いろんな場所で行なわれている担い手対策はもちろん必要です。紐帯の確保。将来に渡って農村で生活を営んでいく、継続的な主体があることを示す必要がある。
その上で、都市ー農村間の所得移転構造について、ある程度洗練された、説得的な物言いを用意する必要はあるのではないか。今まで不文律のように扱われてきたのは、結局のところよくなかった。
TTPや農業に限らず、今後の農村を考える上でこの辺りの整理が必要なのかなと思います。



そうはいっても東京ー地方の関係性は硬直化しているし、ずっと首根っこ抑えられているのは。戦後ずっと続いた構造でもあるし、やはり腐臭薫る場面はあるわけです。
地方ごとにもう少し特色のあるあり方、という意味でもう少し大きなブロックに分割されることは必要なのではないか。
やっぱり道州制的なものは検討せざるを得ないと僕は思うんですけどね。