2012年6月9日土曜日

海へ行く





先日ふった土砂降りの雨で、ウミンの街にある運河の水かさが一気に増した。
溢れるのではないか、と不安になるほどの雨が止んで、青空が戻ってきた。

錆色をしたこの辺りの水は、雨のない乾季には。文字通り煮詰めたようにして、その色を増していた。この辺りは上下水道はない。「母なる運河」はゴミ捨場でもある。だから、水が少なくなると、ゴミが目立ち、悪臭を放ち始める。

独特の茶色い水が、少しだけきれいになった。
たくさんの雨が、薄めたり、押し流したりして、ちゃらにした。たぶん。



なんだかよくないような気もする。
環境に配慮するというのはどういうことなのかを考える。生ゴミといっしょにプラスチックも捨ててしまうこと。これはまずい。
ただ、配慮するだけの基盤がない場所でその指摘は有効なのか、僕は考えあぐねる。基盤とはインフラ、あるいは配慮する考え方だ。問題は系統だったゴミの回収システムがない場所でプラスチックゴミはどう扱われるべきなのか、ということに留まらない。

それを欠いた状態で、何かを打ち立てることができるだろうか。ここにいる人たちはそこから何を得るだろうか。何を学ぶだろうか。僕はまったく考えあぐねる。



閑話休題。



ちょうどスピードボートに乗る機会があり、海に行こう、ということになった。
この街にはスピードボートはない。あるのは普通のポンポン船だ。スピードボートはカマウ市にある。

普段生活している分には海が近くにあることなんて考えない。雷魚のような川魚も多いが、海魚も会社のひるごはんで出てくる。実は海は近くにある。
地図を見るとウミン地区から海までわずか10キロ。



しばらく木々の間を抜けていく。
スピードボートはまったく早くて、通り過ぎるとまるで暴走族でも見るような目でみられてしまう。
今ではウミンでもほとんどの船に原動機がついている。手漕ぎのボートを使っているのは渡し船くらいだ。ところが原動機ボートは、わずか10年前にはほとんどなかった、と聞く。つまり手漕ぎのボートしかなかったという。その時代のウミンは、ちょっと想像がつかない。

10年前には原動機つきの乗り物が殆ど無かった時代があって、今では船もバイクもある。カマウ市に行く道は現在拡幅が進んでいて、遠からず車だって平気でウミンまで来るようになるだろう。僕が体感したことのないスピードで、この場所の様子は変わりつつある。



運河は舟の往来が多いので看板がある。転回禁止、駐「舟」禁止はわかる。
右の標識はなんだろう。


2012年5月27日日曜日

さていまなんじ?

大昔、サミー・ヘイガーがデイヴ時代の曲について「歌詞に意味が無いゼっ」とdisっていた記事を読んだ。だって"Panama"だし"Jump"だし。今回だって"Tattoo"だものね。
気持ちはわかる。でも違うと思う。
デイヴはきっとシリアスに歌うのが嫌なんだ。だからデイヴは、かわいい女の子や先生のこと、アイスクリームのことを脳天気に歌う。いつまでも、いつまでも。
"She is the woman"って、なんだか相変わらずで苦笑してしまった。




若々しい。まあ、顔のシワは気になるけれど。
"Balance"ツアーは僕が2回目に行ったコンサートだ。代々木アリーナ。95年?96年?
サミーの声に慣れているから、"ダイアモンド"デイヴの野太い声には違和感がある。

デイヴの声はこの際置いておくとして、このレコード。
エディのアグレッシブでファットな演奏に耳が行く。むしろ上の"Tattoo"はリーダートラックの割りにおとなしめで、どちらかというとアダルトな雰囲気。他の曲のほうが若々しくて攻撃的。これほどのアグレッションを持ったレコードは、'92の"F*U*C*K"以来じゃないのか。それか、"1984"の前のやつ。名前忘れた。どちらにしてもずいぶん昔のことだ。
太くひずんだ低音と、きれいに伸びる高音。誰もが知っている、彼のトレードマークの音色だ。

不仲と不調。近年めっきりリリースペースが落ちていた。相変わらず「風呂桶スネア」のアレックスさん。好きになれないが、当人たちは特に問題は感じていないようなので。
にしてもベースがエディの息子って。




個人的には、前作"Ⅲ"がお気に入りだ。世間的に評判は良くないけれど。
”Ⅲ”でもエディの変態的指使いが垣間見れるし、随所にエネルギッシュなプレイも聴ける。が、どちらかといえば、彼にしては線の細い、繊細なプレイが印象に残る。
静謐な、ピアノによる"How many say I"でレコードが締められるから、余計そういう印象が強いのかもしれない。

コーラスの後のふとしたブレイクとか、時折顔を出す、少し緩んだような展開。
あるいは、太い音じゃなくて、やわらかい空気とよく馴染むような細かい音。
丁寧にメロディを追っていて、それをエディが楽しんでいるような感じがする。
どうやら少しだけ、今までとは違う世界に足を踏み入れつつあるようだ、と考える。
そして、彼がボーカルを取り始めたこと。かつて、自分をフロントマンとして見られることを好まず(それにしたって十分ギター小僧たちはついて来たけれど)、コンポーザーであることを旨としていたという彼自身に、少しだけクラックが入ったのではないか。
彼の中に、少しだけ風が入ったような。

VAN HALENの加入によって、結局Extreme解散の引き金を引いてしまったゲイリー・シェローンの声も突き抜けたような明るさがある。いい声。まさか一枚で終わるとは思わなかった。




たとえば、こんな想像をしてみる。
日中思い切り遊んだ後の昼下がり。少しくたびれてイスにもたれ掛かりながら、昼間のパーティーの余韻を思い出す感じ。
キャリアとしても午後4時とか5時とかの時間帯に差し掛かっているバンドだ。
傾く夕日を眺め、レイトバックしていたって別に不思議じゃない。なにより、そのレイトバックを彼ら自身が楽しんでいる感じがして、聴いていて嬉しい。
40半ばの男が、改めて楽しそうにギターを弾き、歌う姿を見るのはこちらも楽しい。
まあ、冒頭の現在では60近い年齢になわけで、なおさら信じられないわけだが。

レイトバックするのは悪いことではない、ということが17歳の僕にも言えたか。いいや。きっと、あいつらかったるくなっちまった、と吐き捨てたことだろう。
それでもいいと思えるようになったのは、一部にしても、僕が彼らとともに15年間以上の時間を過ごしてきたから、だろう。ほんの、ごく一部だ。
彼らの一枚目のレコードが出たのは僕が生まれる1年前なんだから。
彼らにとっての「正午」を、追体験することしかできなかったわけだから。
"Eruption"を友だちと熱心に聴き回していた、中学生のころの興奮を少しだけ思い出す。


傾きつつある日が眺められる場所で、楽しく緩やかに音楽を紡ぐのが彼らの現在の姿だとしたら、それは僕にとってずいぶん素敵な風景だ。
個人的には、もう派手なライトハンドとかしなくたっていい。




と思っていたら、冒頭に戻る。
時計の針が巻き戻されたのか。あるいは、午後7時のショータイムのスタートなのか。

お楽しみの時間はまだ残っている。どうも、そうらしい。

2012年5月20日日曜日

アカシアを植える

4.8.2013 追記
アカシアの苗木をつくる」を書きました。アカシアの苗木づくりについてのお話。こちらもご覧いただければ幸いです。


作業をすること、その流れを知ることが好きだ。
少しだけ心が作業をしている人に近づくように思える。

勤勉であること。怠惰であること。熱心であること。ルールを逸脱していること。
作業を知ると、それらについて「ダメ、ゼッタイ」とは簡単には言えないのだ。
その意味で、僕は彼らの共犯者になる。いいような、わるいような話だ。
でも、共犯者にすらなれない人に作業の実際を理解することができるのだろうか?
僕はよくわからない。



ベトナムに来て、もうすぐ一年になる。それだけの時間をここで過ごしている。
何ごとによらず、準備があって後始末がある。ただ訪れるだけではそれを目にすることができない。何をしているわけでもないのだけれど、彼らとともにある時間は、着実に長くなっている。
炎天下のじりじりとした陽射しとか、足腰の痛みとか、喉の渇きとか。
そういうことを、僕は知っている。今ではね。



というわけで、アカシアの植栽の話。




日本ではアカシアはほとんど目にすることはない。よくあるのはニセアカシア。マメ目のこの樹種は根粒菌による窒素固定ができるので、荒廃地でもよく成長するため肥料木として使う。と、書くとまるで高校の生物の教科書みたい。
林業的に言えばニセアカシアとヤマハンノキを肥料木として使っている例が多い。僕は肥料木を使ったことはないけれど、ニセアカシアが大繁殖して大顰蹙を買っているのは見たことがある。

世界の木材市場におけるアカシアは、ユーカリと並ぶ早生樹の一つという位置づけになる。成長が早く、10年以内で伐採可能。日本企業の海外植林でもしばしば使われる、戦略樹種と言っていいだろう。
生産されたアカシアの材木は製紙用パルプやMDFといった繊維板の原料、さらには家具材の原料としても使われている。もしかしたら、家具屋さんで小割り材を組み合わせて作られている家具を目にするかもしれない。全部がそうだとは言わないけれど、その多くはアカシアが原材料だ。ベトナムはIKEAの家具を生産しているから、何気なくアカシア製の家具を使っている人は割と多いのかもしれない。


カマウ、というかメコン・デルタの在来樹種はメラルーカだ。この場所には元々アカシアはなかった。理由は、ここ湛水地であること。そして硫酸塩土壌であること。
アカシアは水分要求度が高い樹種と言われている。つまり、成長するのにたくさんの水を必要とする。
一方で、ある程度の水はけが必要なので湛水地での育成が難しい。加えて酸性度が高い土地は、基本的に植物の育成に障害が出る。最近あんまり話題に上らなくなってきたけれど、酸性雨を想像してもらえればいい。メラルーカがこの場所で優占樹種となることができたのは、湛水地に強いことと、この酸性土壌に対する対応機構が備わっているからだ。
と、ものの本に書いてあった。なるほど、わかりやすい。

その一方で、JICAの支援によりエンバンクメントという土壌改良事業が行われ、アカシアの植栽が可能となってきた。なぜ、郷土樹種であるメラルーカではなく、アカシアを植えるのか。それは、成長速度の早さと木質の良さにある。メラルーカ材よりもアカシア材の方が成長が早く、利用用途も多く、なにより材価が高い。
ということで、アカシア植えたいな、と考え始める人が増え、またその条件も整ってきた、というのが現在の状況。




まず苗木。
公社ではアカシアの苗木を生産している。植栽するアカシアは、いわゆるアカシア・ハイブリッド(Acacia Hybrid)と呼ばれるもので、Acacia MangiumとAcacia Auriculiformisという2種の掛け合わせによる樹種だ。挿し木による苗木生産を行なっている。だから、公社の周囲はアカシアの採穂園となっている。
苗は1本800VND。メラルーカの苗木は70VNDくらいなので、かなり高い。穂を採取してポットに植え付け、およそ2ヶ月で苗木の出来上がり。ちゃんと根には根粒菌のコブがついている。



そして苗出し。
植栽の前日、準備が始まる。苗木を選り分けながら50本ロットごとに袋におさめていく。次の日の植栽面積はおよそ1haだったので、3,000本/ha、しめて60袋ほどの苗木を準備する。この作業、腰が痛い。




翌朝、苗木は舟に積み込まれ、植栽地に届く。
朝6時から植栽作業開始。随分早いけれど、炎天下の作業はちょっと現実的ではない。日本の植栽作業と違って、見渡す限り休める日陰もないから。

植栽地はバックホウによりエンバンクメント工事が終了した場所。エンバンクメントとは「バンクを作ること」で、つまりは水に浮かぶ巨大な畝をつくるという作業だ。水はけが良くなることで、植物の成長が促進される。また、酸性化した水を速やかに排除することができて、植物への影響を軽減することができる。エンバンクメント、土壌が酸性化する仕組みについての説明は「バックホウの旋回範囲内」を参照のこと。
土壌についてはもう少し詳しく、そのうち項を改めてもう一度考えてみたい。僕自身がもうひとつわかっていない気がする。


ここは、植栽のつい3週間ほど前にエンバンクメントが終わったとのことで、土はまだ水分を多く含んでいる。土壌は粘土質で、水を含むとベタベタとするが、乾季で雨が降らないと固くなる。


最後に植栽。
植栽の方法は簡単。いわゆる畝の横方向に対して1.5m、縦方向について2m間隔で植えていく。正方植えではなく、三角植えだ。穴あけ係が木でボコボコと穴をあけていき、苗木係でそこに苗を置く、最後に植える係が黙々と植えていく、という役割。
この日は1haで30人の人間が植栽。人工数とか、細かいことを考え始めると面白すぎるけれど、そこまで手が回らないので考えない。この国は人件費が安い。



完全に雨期に入っていたら、苗木を挿せば粘土のようにめり込むので植栽は楽だ。その代わり、ぬかるみを歩くことになり移動が大変だ。実際、カマウ省の指針では雨期に植栽することになっている。でも、この時は4月。雨期直前だったので、場所により土は固く、穴あけと植栽に難渋していた。
メラルーカの植栽と比較すると、水面から完全に浮き上がった土地に植栽している分、ぬかるみは少なくて楽だ。メラルーカの植栽にまつわる悪戦苦闘っぷりについては「メラルーカを植える」を参照。


メラルーカ植栽地とアカシア植栽地の使い分けについて。
アカシアの方が材価が高いから植栽経費さえあれば、誰だってアカシアを植えたい。しかし土地によってそれができないところもある。それはどういうことか。
それは単純に、水位が高くて、表土が少ないところだ。結局、バックホウのアームの届く範囲、バックホウを載せた台船がひっくり返らない深さでしかバンクを作ることができない。だから、いくらエンバンクメントを施しても十分な高さのバンクを作れないところが出てくる。そういう場所は容易に湛水してしまうため、アカシアを植栽しても根腐れを起こしてしまう。だから、十分な高さを確保できない場所はメラルーカを植えざるを得ない。


日本にいると「土がない」という事実は、なんだか不思議なことだ。地震がほとんどないこの場所で、「土がない」ことは、メコン・デルタがまだ生まれたての大地であることの証拠でもあるんだろう。
上流から少しずつ土が運ばれてくることを、植物が成長しては枯れ、徐々に土に変わることを、気長に待たなくてはいけない。気が遠くなるような時間をかけて、大地は少しずつ水面から顔を出してくる。


植栽終わり。午前10時終了。
2時間も作業をすれば、しっかりと汗をかき、腰は悲鳴をあげている。喉は渇き、イケナイお水をがぶ飲みすることになる。
雨が降らないと活着前に枯死する危険性もあって、少し心配したが、ちゃんと雨期に入ったので大丈夫。最速6年で収穫するとのこと。さすが早生樹。





仕事が終わったら、めしとひるね。


2012年4月22日日曜日

北部の風景
















出張でハノイに来ていた。会議を終え、夕方のフライトまでいくらか時間があったのでドンラム村へ。

この9ヶ月で4回ハノイに足を運んだが、どうも好きになれない。埃っぽいし、排気ガスがすごいし、夏は暑く冬は寒い。絶対身体に良くないだろう、と。同じ都会でもホーチミンは、風があるし、スコールがある。
と、いうことであんまり北部に好感は持っていなかった。



ただ、北部にはなにやら不思議な影がある。埃っぽい大通りから、路地に入ったところ。建物を覆い尽くすような木々の濃い緑。人の営為を壊しながら、調和するもの。なんだかわからない。わからないけれど魅力はある。そんな気はしていた。


ふと思い立ったので、カメラはもってきてない。残念だけれどipodのカメラで。説明は下記がいい。写真もきれい。
http://www.vietnam-beauty.com/cities/ha-noi/4-ha-noi/235-duong-lam-ancient-village.html

















ドンラム村はハノイから車で1時間。ハノイの市街地を抜けていくと少しずつ田園地帯が広がっていく。ドンラムとは面白い名前だと思ったら、ここに住むボランティアに Đường Lâmだと教えてもらった。砂糖の林。かつてここはサトウキビが生い茂っていたという。なるほど。

田んぼは南部にもある。というか、メコン・デルタこそ世界の穀倉地帯だ。しかし、こちらの田んぼはずいぶん親近感がある。日本の田んぼによく似ている。整然と区画管理されていること、ちゃんと田んぼになっていること。
メコン・デルタの田んぼは田んぼではないのか。そんなことはない。でも、水の量があまりにも多すぎる。乾いた土地が少なく、水が溜まっているところが多い。稲作というよりも、その溜まっている水たまりに稲を放り込むように見えなくもない。
水と栄養が豊かすぎるのだ。自然に抱かれて、無邪気に2回も3回も稲を収穫しているのがメコン・デルタ。
それほど水も栄養も豊かではないところは、きちんと管理しなくてはいけない。だから、同じ田んぼでも風景が変わってくる。そんなふうに努力して管理された田んぼはちょっときれいだ。

ドンラムは歴史的街並みとして保護されているとのこと。旧家は保存され、修復される。また、新築する際にも規制があるという。
現在2名、建築と村落の日本人ボランティアがここに入り、活動している。

僕は僕が想像していたベトナム的な風景というものに、ここで初めて出会えた。
家がしっかりしているというのは、ちょっと、我らがウミンではない。ウミンにあるのはお金持ちがつくったモルタルの家か、東屋のような農民の家の2択しかない。どちらにしても、たぶん20年ももたない。それは、南の人が永久構造物を作る、という意図を持たないこともあるし、酸性度の高さや塩分やシロアリにより朽ちてしまうからだ。修理に値する建物というのは、メコン・デルタにはあまりない。
そう、家が家としてしっかりしてるのがいいなと思った。なんというか、安心感がある。


赤茶けた壁に整理された街並み、それを覆う緑。壁の向こうには、たくさんの緑。寡黙で遠慮がちに見える人たちが生活していた。聞いた話では西暦200年代からのお話がある。ベトナム人の大好きな英雄譚だ。考えてみれば当然だ。ここは中国との係争地の歴史が長いのだから。単に建物が古いのではなく、この場所はストーリーを持っている。

メコン・デルタだってもちろん歴史はある。ただ、語られるストーリーはといえば、19世紀にようやくフランスとの関わりにおいて顔を出す。その意味で、メコン・デルタは語れることは、いくらか少ないかもしれない。積み重ねられた歴史が違う。















アクセスが良好だということもあって、外国人も含め多くの観光客が来ていた。
案内してくれたボランティアが言うには、ここはもともとコミュニティの力が強い、言ってしまえば排他的な場所であったという。だからこそ、この街並みが残っているとも言えるし、現在の商売っ気にどういう風に結びついているのかという興味もある。単純に人は変わる、ということかもしれないし、それがここに住む人の生きる道だと認識しているからかもしれない。実際のところ、そんなに商売っ気はないらしい。
変わりながらも、コミュニティは維持されていくのは、なんだかいいことだ。















ベトナムは基本的に、北部の人は南部の人が嫌いで、南部の人は北部の人が嫌いだ。北部の人は頭ばよくて、ずるくて、暗くいそうで、南部の人は、陽気で、何も考えていないそうだ。
外人からすると、北部の人にはある種、抑制が効いている感じがする。ズルイ、というのはよくわからない。たぶんズルイ人はどこにでもいる。
北部の人は声が小さく、キビキビとしたベトナム語を喋っている気がする。聞き取りやすいベトナム語。理解できるかはまた別だ。

抑制が効いていることは、別に良い悪いの話ではない。ただ、抑制の効いた人は個人的に好きだ。あけっぴろげな南もいいが、しずしずとしている北の雰囲気は、なにやら好ましい。あ、寒いのはきらいなんだけれど。

2012年4月17日火曜日

Dead winter dead / 語感の余韻



まあ、春だが。というかここは常夏だが。
だって、寒い時にこんな話をしたら寒くてしょうがないじゃない。




本当は導入にギターによる「歓喜の歌」が入っていて、そこから聴いたほうがよい。
なぜ Dead、という単語を重ねるのだろう、と気になった。というかほとんどタイトルに惹かれて買った。で、歌詞カードを見ると「死、冬の死」と、ご丁寧にゴチック太字で印字されていた。はは、そのまんま。「デッド・ウインター・デッド」という言葉の語感は邦訳よりもはるかに印象的だ。

レコードのデーマはボスニア紛争に関するもの。レコード前半のハイライト「This is the time」がボスニア・ヘルツェゴビナの独立、開放感と栄光に溢れた一風景ならば、「Dead winter dead」は悪化する戦況を切り取ったような、ダークでザラザラとしたリフ・オリエンテッドな一曲。レコードタイトルにも冠されているこのレコードを代表曲といっていい。ザッカリー・スティーブンスのシアトリカルかつ、どこか毒を含んだようなヴォーカリゼーションも秀逸。
95年リリース。今はなきゼロ・コーポレーション。なぜ公文がメタル・レーベルを持っていたのかは未だに謎。


なぜ場所も季節も勘違いなことになってるかというと、日本からの友だちが一冊の本を置いていったから。
『ドキュメント戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争』高木徹, 講談社文庫, 2005
NHKのディレクターによるノンフィクション。
ボスニア紛争があったことは知っている。でもまあ、知らないに等しい。日本語の活字に飢えている昨今でもあるので、興味深く読んだ。

旧ユーゴスラビア連邦からボスニア・ヘルツェゴヴィナの分離独立し、旧連邦の盟主たるセルビアとの反目により紛争が始まった。劣勢だったボスニアは、窮状を訴え国際世論を味方につけるため、アメリカのPR企業と契約する。PR企業といっても電通とか博報堂とか、そういうチラシ企業を想像してはいけない。
PR企業はボスニア政府とともに「コップの中の嵐」に無関心であった世論の耳目を引きつけ、セルビアを悪者に仕立て上げる。例えば、「民族浄化」"Ethinic cleansing"という「コピー」を作り出し、盛んに喧伝する。 
そうしたPR活動は、事実かどうかとはまた別のところで行われていた。企業は契約したクライアントの利益のために活動する。虐殺や強制収容もきっとあった。でも、「民族浄化」の検証はあまり行われず、根拠が曖昧なまま世論や報道は加熱し、セルビアが悪者にされていく。
本書はその過程を丹念に追ったレポルタージュ。

筆者はセルビアが別に「無辜の被害者だった」とは云っていない。しかし少なくとも現在(05年だけど)のサラエボとベオグラードほどの落差、つまり戦勝国と敗戦国の格差ほどには、当時、お互いがやっていることの違いはなかった(例えばボスニアだって「ちゃんと」収容所を持っていた)。PR企業の「戦略」により、国際世論がコソボ紛争を注視し、セルビアを悪者と認定し、NATOが介入して今に至る状況が確定した。ボスニアは「PR戦争」に勝利したわけだ。
"Ethinic cleansing"という言葉はとてもクリアでスムース、響きが良い。それでいて、意味内容に底知れぬ恐ろしさが潜んでいる。道義心を掻き立てるには、とっても秀逸なコピーだ。ユダヤ人の感情に配慮して”holocaust"という言葉を使わなかった、というくだりもとても気が効いていて気持ちが悪い。
ビューポイントによって、きっと全く違う風景が見えるのだろう。筆者の質問に答えるPR企業のインタビュイーとのやり取りを読んでいると、人がゴミのように思えないこともない。クールで淡々としている。だってビジネスだからさ、と言わんばかりだ。


冒頭のSavatageにしても、実はアメリカのバンドだ。このレコードのなかにはいわゆる「死の商人」をモチーフにした曲もあるのだけれど、いま考えると、彼らの怒りはマッチポンプようではないか。
アメリカの企業が兵器を売りつけ、それによる犠牲をアメリカ人が嘆き、怒る。しかしそのアメリカ人の怒りは、そもそもアメリカのPR企業が火をつけ、油を注いだものだったりする。
入れ子状のマッチポンプ。こんな例も珍しい。

こういう行為の是非について、正しいか間違っているかを考えることは、ある世界の人にとってはナンセンスなことなんだろうなという気がしてくる。
強い印象を受けたのは、言葉と、それが与える余韻だ。その余韻の破壊力、といってもいい。「キラーワード」は戦争の行方すら決める。呆然とせざるを得ない結論。それこそナンセンスな世界ではないか。
高木は文庫版のあとがきで次のように述べる。
「はっきりしていることは、「PR戦争」の倫理を問い、その答えを見つけ出すまで、現実のさまざまな「戦場」で戦っている人々、そして日本という国、そこに住むわたしたち国民が待っている余裕はもうない、ということである」
こんな風に皮肉を吐いている余裕すらないということなのだろう。でもさぁ、というふうに思わざるをえない。



伊藤計劃の『虐殺器官』(早川書房, 2007)では、サラエボの街は熱核反応により消えてしまっている。ああ、こちらはフィクション、SF小説。ネタバレなので読んでない人は気をつけてね。サラエボは実在します。
結論からいうと、「虐殺器官」とは言葉であり、文法であった。
「キラーワード」はコトの成り行きを決めるだけではなく、人だって殺すだろう。そういえば、この小説もPR企業の人間が重要な役割を果たしている。フィクションだけれど現実に近い、というよりも現実そのものじゃないか、と思う。前掲書を読んだ今となっては。
言葉なり文法なりを扱うのがスムーズでクリーンな世界に生きているクレバーな人間であるというところもなにか引っかかる。事件は会議室で起こっ(以下略)。たとえばそういう人はしばしば敬虔なキリスト教者であったりする。僕にはもう、よくわからない。あまりに整合しない事柄が並んでいる。


高木も言うように、「民族浄化」という言葉はすでにバズワード化していて、その後のコソボやソマリアで使われている。一見すると民族対立しているから「民族浄化」というワードを当てはまめて使っているように見える。

だが、「民族浄化」という言葉がまるで枕歌のように紛争を呼び込むものだとしたら?Cleansingというスムーズでクリーンな言葉の使用は、安易に「アイツらをクレンジングしてやれ」というコピー・キャットを生み出しはしまいか。小さな諍いを、手の付けられないような鬼胎に育てあげはしまいか。「適切な」言葉が人の行動を規定してしまうような。
もしそうであるならば、きっと世界は前書よりも本書に近い。

いまセルビア人がボスニア紛争のことをどう総括してるだろう、と想像する。あるいは僕ら自身が僕らの行為をどう総括するだろう。「虐殺器官」のような結末を欲望するのは、彼らかもしれないし、もしかしたら僕ら自身かもしれない。
スムーズでクリーンでクレバーなやり方が、とてつもなく愚かしい結果を招くことは、たまにあるよな。

2012年3月25日日曜日

中にいること/外にいること



ホーチミンにいた時に、ベトナム人家族の家に遊びにいく機会があった。
入るとレンガ(コンクリート)の家。冬にずいぶん底冷えしそうにも思えるけれど、その心配はない。常夏だから。
大きな窓をつくって開け放ち、風を入れる。ベランダにはプランターをおいて緑を。窓とベランダがなければ、きっと殺風景な住まいだ。窓は開放してしまうので、外のようになる。アリだって入ってくる。開放しているコンクリートの家はひやりとしていて、涼しい。


カマウの家は所得によって違う。お金持ちはやっぱりレンガとコンクリートを使った家。お金持ちの家は玄関入ってすぐ居間で、たいていは高そうな応接セットがおいてある。入り口は2間くらいあって、つまりはだいたい外だ。採光性云々を言うよりも、ここは外、といったほうが早い。間口にドアはなくて、代わりにアコーディオンカーテン見たいなもので仕切る。まあ、長期不在にでもしない限り開いている。玄関入ると、まあお茶でも飲め、となる。

貧しい、というか標準的な家は玄関の横に縁台がある。ふだんは人はそこにいて、日の高いうちは家の中にあまりいない。暑いし暗いから。
家の骨組みはメラルーカなどの木材を使い、壁や屋根はニッパヤシやバナナの葉をつかって葺く。こちらは間口が狭く、普通のドアがある。家の中はたいていは土間で、寝るためのベッドとハンモックが吊るしてある。採光性が悪くとても暗い。レジャーシートやブルーシートを多用しているのが興味深い。永久構造物ですが何か。
縁台にいるおっちゃんに見つかると、まあ茶でも飲め、となる。

どちらにも言えるのは、外もしくは外みたいな場所で多くの時間を過ごしていること。茶を飲むこと。そして蚊に刺されること。
日本の家のありようとは、ずいぶん違うよなぁ、と考える。


地理学者、でいいのだろうか、のイーフートゥアンは、こんなことを言う。

「自分の家というものは夏よりも冬の方がより親密な感じがする。冬は、われわれのかよわさを思い知らせ、自分の家を避難所として規定する季節だからである。それに対して、夏は世界全体を楽園に変える。その結果、夏は人間はどこにいても同じように保護されていることになるのである。」(『空間の経験』イーフートゥアン,筑摩書房,1993,p241)

なかなかうまいことを言う。
ここ常夏の場所であるから、さしずめ永続的に続く楽園だ。世界全体に愛されているから、敢えて家の中に閉じこもる必要はない、ということか。
そんなわけで、ここの人々は外、あるいは外みたいな場所で人生の多くの時間を過ごすんだろうな。


普段はそれでもいいよな、と思う。困ったのが病気になった時。常夏でも悪寒が止まらない、そんなときは誰だって暖かくてきれいな部屋で眠りたい。風邪かなんか引いたおじいさんに会った。パジャマで首にタオル。頭にもタオル。ああ、そよ風でもきっと寒いのだ、と気がつく。

家は風通しがいいし、家によってはハンモックしかない。身体にかける毛布なんてもちろんない。病気になった人が、落ち着いて身体を休めることが出来る場所というのは、そんなにない。
たしかに、身体が元気なときはこの場所は楽園かもしれない。夏は人を保護する。でも、ひとたび病を得たり、年老いた人にとってはずいぶんつらい場所だ。ここの夏はそのような人にそれほどやさしくないし、ここの家は日本ほど人を守らない。そんな違いもある。


寒い世界の、ふとんの暖かさとか、家に帰ってほっとする感触を少しだけ想像する。
あれはたぶんそこに住む人にしかわからない特別な感触。

2012年2月22日水曜日

森林を調査する



さて、ここはウミン。
メラルーカ林の調査をしてみる。カウンターパートの調査に同行。
調査なんて簡単と思うなかれ。ここの森林は四方、堀というか運河に囲まれている。
船がないとアクセスが不可能だ。





林内はこんな感じ。
たぶん雨期は滞水するため、木の根元部分は黒く変色している。水に浸かっている部分は雑草が生えない。そうではない部分はカヤのようなものが生えている。乾期だけれど、黒く土壌は湿っており、かなり匂いがある。
一気に好気性微生物が活躍するとき、たとえば災害とか。そういう匂い。
なんか、わかんねぇ説明だな。




ここはメコン・デルタなので、当然まっ平ら。
職員さんが、次々とプロットを作って調査していくのだけれど、どこ歩いたのか僕にはさっぱりわからない。これ、一人で入ったら迷子確実な。

本当にびしょびしょで、サンダルで侵入した僕としては全く残念な子としかいいようがない体たらくっぷりを発揮。もともと粘土質の土壌なので滑るし沈む。ちなみに彼らは裸足で入る。と、そんなところで現地の人と競ってはいけない。気を付けねば。

ヘビがいなくって本当によかった。蚊はもちろんのこと、ハチもいた。
下の写真はハチの巣。こうやって巨大な、なにやら黒い塊に出くわす。

 
わかりにくいけれど、細かいひとつぶひとつぶは全部ハチ。もぞもぞと、蠢く。
巣、というよりはむしろコロニーだ。ハーレムかもしれん。



調査したのは今年度伐採する8年生メラルーカ林。樹高は7m〜11mといったところ。平均胸高直径は5cm。8年で11mは、日本からしてみれば反則そのもののといっていい。ただ、胸高直径はずいぶん小さい。ヒョロリとしている。

調査野帳が没収されてしまったので、手元にデータはない。が、たぶん成立本数は6,000〜7,000本/ha程度とみた。たぶん。それくらい。10,000本は明らかにない。

これを多いと考えてはいけない。メラルーカの標準植栽本数は20,000本/haだ。70cm間隔でガシガシ植えてしまう。そして、植栽後の保育はない。つまり8年足らずの間に6割以上が枯死した計算になる。足元を見ると、枯死した株が散見される。
まるでマングローブ林の気根のようだ。















日本の主要植栽樹種、スギヒノキであれば2,500〜3,000本/haだから6〜8倍植栽していることになる。広葉樹植栽は除いてね。ま、確かに多いは多い。
昔仕事にしていた保安林では10年生以下の作業種は除伐しかしない。つまり侵入木や不良木の除去だ。こちらは8年で主伐。まったくもう。育ちの悪い北国の林業に関わってきた身としては、すこしばかりうんざりする。

思うのが、この枯死率の高さ。例えば最初から6,000本/haで植栽すれば、植栽経費は4割で済むじゃないか、という話だ。メラルーカの苗木は1本800VNDだからヘクタールあたり11,200,000VNDの節約ができる。4〜5万円くらい?そんなもんか。

この話を職員にすると、できないという。にべもない。その理由は、主要用途である杭材として使えなくなるから、だそう。
言わんとしていることはよくわかって、メラルーカという樹種はもともと箒状に枝が伸びる樹種で、しかも曲がりが起きる。わざと植栽密度を高くして分枝や曲がりを抑制しているのだろう。加えて密植すると種内競争により伸長成長が促進されるし、早期に林間閉鎖が起こり雑草の発生を抑制する。なるほどね。
だから、正確に言えば用材としての歩留まりを上げることを目的としている、ということになる。



それはそうかもしれないけれど、現状では杭材価格が値下がりしている、というところも、この地域の林業の現状でもある。メコン・デルタにおける木材用途は、杭材や薪炭材からパルプ材やパーティクルボードといった繊維板利用に少しずつシフトしている。

このままでもいいけれど、目先を変えてみたら?というところで、僕はこれから試験林をつくろうと思っている。






日本で森林調査するとき、測定の終わった木にテープをつけたり、チョークで印をつけたりするけれど、こちらは手で樹皮をべりり、と剥がす。そんなに簡単に剥けてしまう。
樹皮を剥いたところから、水が溢れ出す。やっぱこいつらは年中成長してるんだなぁと思う瞬間。
一面に泥水がばら撒かれたようなこの場所で、透明な水が溢れるのを見るのはとても印象的だ。







這う這うの体で調査がおわり、飲み会。こんなのばっか。
しかし終わった後のビールがウマイのは万国共通だな。