evernoteを雑記帳につかっていて、
ベトナムで調子がわるいので救出目的で採録。
震災があって、なんだか遠い昔の話のような
気持ちになってしまうんだな。
なぜサンデルの本なんぞが売れ売れだったんだろうか、と不思議に思う。教授は東京ドームで始球式までやってしまう。『これからの正義の話をしよう』は40万部以上売れているとのこと。ぱららと読んでブックオフに売ってしまった。系譜学の本、という感じ。系譜を学ぶのは大切だが、もどかしい。かつて『ソフィーの世界』が売れ売れだった時代もあった。うちにもあったんだけど、あんまり面白いとは思わなかった。たぶん、系譜学/哲学学の本だとおもったからかもしれない。関心のあることを探究することと、関心のあることのアウトラインを学ぶことは異なる作業だ。
『正義の話をしよう』を読んで、題名と内容が違うじゃん、と読んだ人は思わないんだろうか。「正義」という文言は例えばショッカーをやっつけてみたり、マントの裏に墨書してあったりといろいろな表出があるが、総じて共通したイメージがある(んじゃないかと思う)。サンデル先生の本書はそのイメージに連なるだろうか?
僕の想定するイメージは「決め方の論理」(そんな名前の本もありますが)を考えるうえで何かしらの基準が必要でしょ、という飢餓感のようなもの。表題に惹かれて買った人がいて、いろいろなケーススタディを読みながら、これが正義に関する議論?っておもうんじゃないか。僕ならそう思う。しかし、さしあたり、これが正義に関する議論と呼ばれている。
普通、「正義」という語感と、例えば「無知のベール」とかの概念は簡単には結びつかない。ショッカーもショッカーなりに主義主張があるんだ、とのたまう四歳時がいれば、もうその子にはいうことはない。
ちなみに仮面ライダーはショッカーも含め「改造された」人間である。人間である。まさに正義論の出番であるべきイシューであるのだが。ほんとうは。最近の仮面ライダーについてはとんとよくわからない。なんか、改造されていないような気もする。
『「正義」について論じます』大澤真幸 宮台真司 左右社 2010
あまのじゃくなので話題にならなかった方を。
対談集。宮台はよく「これわかんないヤツは単なる馬鹿」とか言うからまったく怯えてしまう。僕はアホで勉強不足なので、宮台のいっていることはあまりわからないし、後半になると皆目見当つかなくなるが、前半の30ページくらいの議論でもずいぶん面白いと思った。
正義とは何か?と聞かれたら、僕ならばとりあえず「善の構想だ」と応じている。ショッカーにはショッカー的善があり、それに基づいて行動している。もちろん、そのショッカー的善は、しばしば僕らの善と相入れない。
仮面ライダーはショッカーを粉砕してしまうわけだが、これは正義の適用とはいえない。なぜか。相手を撃滅してしまう行為だから。ショッカーも改造されているとはいえ人間である。刑法に即していえば正当防衛の連発である。これでいいのか、と考えて話が逸れたことに気がつく。
宮台は社会学について「みんな」とは何かを考える学問」と定義してみる。これは好い。「善の構想」だけでは正義の定義としては足りない。複数の善が散在してしまうし、「ショッカー的善」は撃滅されてしまう。
「善には複数性や多様性がありますが、善は個人にとっては信仰内容そのもので、自明性が低いからこそ善なのです。ところが正義は善よりも複雑性縮減力が強い―つまり善に比べて多様性が少ない―のに自明性が低いままなのです。
社会学者にとって、正義は「非自明だが、縮減力が大きいので必要不可欠」といえる特殊な社会現象です。いわば「不可能なのに不可欠」なのが正義・・・。 」p13
「多様性が少ないのに自明性が低いまま」とすれは、正義の一番の使い道はここでいう縮減力—複数の善を集約するツール、ということになる。「不可能なのに不可欠」っていうのがなんとも好い。高校時代なぜ社会契約説なんか勉強するんだろう、と思っていた。それって、昔の人が考えた単なる物語でしょう?ってね。「不可能なのに不可欠な物語」(の変遷)を、僕らは学んでいたような気がする。
大澤は応じる。
「もし普遍的な正義を放棄するならば、さまざまな集団は、それぞれの善を掲げあいながら、お互い排他的に関わり合うしかないのか、もっともましでも、せいぜい「敬して遠ざける」ような関係を保つしかないのか。
しかし、いまさまざまな事件からもわかるように、たとえば犯罪やテロのような顕著な事件が端的に示しているように、社会の包摂性をもっとあげてゆかねばならないことは、はっきり見えています。」
もし正義論が求められているならば、ここなのではないか。
僕らが物語でしかない社会契約説なんかを学ばなくてはいけなかったのは、きっと、社会を協約する物語はこんなものでした、ということを知っておかなくてはいけないからだ。もちろんそれは物語でしかないのだけれど、とても大切な物語。王様がいる時代から王様がいない時代に至る物語。反証可能にもかかわらず、未だに有効に機能している(とされている)物語。
「普遍的な正義」っていうと大上段に聞こえるけれど、身近な問題で考えれば。おとなりさんとの協約可能性がないとずいぶん居心地がわるいはずだ。
となりの県では?農村と都市では?国と国では?自明性の低い無数の善がこの世にはある。
こうやって考えると「正義のミカタ」は結構ダルい。徹底的に実際的に正義の見方の仮面ライダーはきっと公務員みたいな仕事をしているような気がするな。アフターファイブに居酒屋でグチっているような気がする。きっと腹だって出ている。
ほかにも、中間組織の崩壊による行政への関わり方の変化(「監視するな」と昔はいっていたのに、監視を怠ったことが責任になっている)などの議論。固有名詞が大量に出てきて、ひけらかしか?と苦情もいいたくなるけれど、巻末に用語集あるので安心。意味分かんないけど。
正義の所在を考える題材としては沖縄のこと。大澤はこう述べる。中身はいたってシンプル。ちょっと長いけれど引用しよう。
「 沖縄の人たちは、基地の「県外移設」を要求した。その要求には共感できますが、しかし、もしほんとうに県外移設を望んでいるのであれば、「県外」移設と主張しただけではだめです。どうしてかというと、「県外移設」ということは、基地が沖縄と鹿児島の県境を超えて向こうに行けば、沖縄県民にとっては万々歳ということになります。つまり、基地が辺野古でなく、徳之島にあれば良い、ということになります。この主張はセルフィッシュなものに聞こえてしまうのです。それだと、これまで沖縄の県民が受けてきた苦しみを徳之島の人に転移しただけだからです。これがカントのいう「理性の私的使用」ということです。
それならば、どう主張すればよかったか。基地を県外に移設したかったら、沖縄という特定の県の外への移設を要求するのではなくて、任意の県の外への移設、そしてついては任意の「圏」の外への移設を要求しなくてはいけない、と僕は論じました。」
「沖縄の人たちが「県外移設」を要求したときに、念頭におかれている「みんな」は、真の「みんな」、包括的な「みんな」ではなくて、特定の県民だったということです。…超えるためには、排除されている側の「みんな」を、真に包括的な「みんな」に拡大しなくてはいけなかった。
「みんな」として支持されている範囲が、このようにちょっと立場が違うだけで変化してしまうのは、結局、現代の日本 において「みんな」の指示対象とな実体が不安定だからです。」p27
まったく当たり前の話でしょう?なんであのときこんな話にならなかったんだろう。
知事会で沖縄県知事が何を言ったか、それに対して他県の知事はどういったか。そもそも知事会で決めるべきイシューではないかもしれない(でも、誰が決めるんだろう)。日本にいて、これ以上、緊張感をもって「みんな」とは誰か、この問題における「正義」ってなんだったのかを考えさせられる問題はない。
「みんな」が嫌なものをどうするか。誰かに押し付ける?その誰かは「みんな」の中に入っている?
あのとき、誰もが反対しているように見えた。それは、一体誰に対して、何を反対していたんだろう。
話を変えちゃう。環境的公正は[environmental justice]と訳される。もともとは社会的公正[social justice]から派生した概念。「核のゴミ」の置き場が先住民の居留地のそばだった。日本にも原発立地とか、同じようなことをしている事例がある。
社会的公正は環境的公正に優先する、としている。僕はこの考え方が好いと思う。社会的公正がのほうが大事なんだよ、という環境的公正の佇まいがなんとも好い。何を大事にしたいの?何を守りたいの?というところに繋がっていると思えるから。
みんなとは誰のことなんだろう。あるいは、
みんなはなんでみんなじゃないんだろう。
とても大事な問題だと思うんです。
「みんな」ってやっぱり絵空事のようだ。社会はそんなにあまくない。でも絵空事すらない社会に、僕の住む場所はあるんだろうか、と考えると、なんだか慄然とした気持ちにもなるのです。