2011年7月16日土曜日

ベトナム語を学ぶこと

「フミはシンプルセンテンスをもっと使いなさい。
書き言葉と話し言葉は違うのだから」

僕の名前は「フミ」となった。
ひとつの言葉で4母音あると発音が難しいとのこと。

プレゼン後、発音の誤りをたくさん指摘して頂いた後、
thầy Thuyếtはそうおっしゃる。英語とベトナム語で。
言外に長文を作る能力ないだろ、オマエ、
というニュアンスが込められている。
そのとおり。まったく優しく、スパルタ教育して頂いている。
そう、僕はまだシンプルセンテンスをすらすらと話すことすら困難だ。
 Đa. と答えるのみ。
頭の中に大量の日本語文の言いたいことがあって、
それを変換しようとして、クラッシュする。の繰り返しをしている。
思ったよりも、複雑な思考をしているのかもしれない。

そしてなにより発音が非常にやっかいだ。
母音の数が違うことと、声調によって意味が異なることで
スペルは合っていてもまったく伝わらない。ほんとーに伝わらない。
ベトナム語について「まるで歌のよう」とものの本に書いてあったが、
たしかに自分が音痴になった気分だ。本当に音痴だけど。
間違ったキーで歌っている。そんな感じが確かにする。
いかに日本語(と英語)は声調に関して無頓着であるか。
そんなことをうつうつと考えている。


つらつら日本語で考えてみる。ああ、楽。
文字にほとんどの情報が入っているのが日本語で、
発音にも情報が含まれるのがベトナム語、ということになるのか。
もちろん、ベトナム語の文字にすべての発声情報は
含まれているから、読めばわかる。同じか。
でも日本語には発声情報は含まれていないな。

ベトナム語は使われる文字数が少ないが、含まれる情報量は多い。
文字記号と発音記号と声調記号。
さしずめ共同溝のように、複数形式のデータがビルトインされている。
日本語は単一形式データだが、使われる文字数が多様だ。
 thầy Chánhは日本語には漢字があるから覚えるのが大変で、
それに比べればベトナム語なんて、という。
それはそうだけど、 thayとthâyと thấyとthầyとthảyで
意味が全く違うこちらの身にもなってくださいよ、と言いたくなった。
漢字とひらがなは表意文字と表音文字でたしかに異なる表示形式。
しかし、意味内容を表すという意味では同じ種類のデータに数えていい。

日常生活においては、例えばこういう文章において、
漢字は意味内容を明確化するために使われる。
かんじはいみないようをめいかくかするためにつかわれる。
ほら、読みやすい。スペースを入れなくても読める。

漢字を廃してしまったハングルでも新聞を読めば括弧書きで
漢字が書いてあることがある。結局漢字って便利なんだと思う。
ああ、話が逸れている。
つまり、ベトナム語が三階建ての言語であるならば、
日本語って1.5回建てくらいじゃないの、ってこと。

確かに漢字は難しい。
禅とか幽玄とかが好きな外人にオマエほんとにわかっとんのか、と
つっこみたい瞬間はあるけれど、僕に分かっているかどうかもわからない。
僕は日本人だから分かって、彼らは日本人ではないから分からない
というのは非対称な考え方だと思うけれど、そういう部分はある。
それはベトナム人が生得的に12個の母音を使っているようなもので、
6個の母音で31年間やってきた僕が2年住んだからといって、
それは結局理解できないんだ(と思う)。


個人的に、ひらがなにこそ豊穣な世界が含まれている、と思う。
ベトナム語の音声情報が多様なのとなんだか似ている。

漢字には音読みと訓読みという二つの言い方があって…
と、ベトナム語で説明するのは語彙が少なすぎて今の僕には不可能だ。
もちろん英語だって不可能だ。

でも、音声の響きに独特の美しさ、日本らしさがあるのは
ひらがなに負うところが大きい、と思う。
なんだか国学者のよう。

たおやめぶりとか、ますらおぶりとか、そんな言葉もあった。
それは女らしい様とか、男らしい様、という言語内容以上のデータが
含まれている、と僕なら思う。僕だけかもしれない。

いとおかし、とか、ろうたげなり、っていう言葉は
他言語に変換する以上の情景が、見える気がする。
古語辞典を翻訳すればいいのかもしれないけれど。けれど。
該当する漢字があるのに、ひらがなを使いたいときはある。
それはひらがなの方が適当だと判断していて、かつ、
そのことばの世界を僕が想起しているから、にほかならない。

そのニュアンスを日本人以外の人に伝えられるか、
そもそも、他人に伝えることなんてできるのか。
言葉って難しいね。
さしあたり、
音読みは日本語の世界の半分だけなんだよ、とは言いたい。

しかし、それがどのタイミングで、誰にいうべきなのか見当もつかない。
…だから?と言われそう。
結局言語って知りたいと思う人しか興味はないし、
知りたいと思う人しか知りえないものなんだろうな
という雑な結論に到達してしまう。