2008年5月25日日曜日

読書ノート「責任と正義~リベラリズムの居場所~」①

5.21.2007

「責任と正義~リベラリズムの居場所~」北田暁大 
ケイソウ書房

①行為の責任について

手垢のついた導入だけれど、responseは「応答する」。で、responsibilityは「責任」。なんにもいっていないけれどなにごとかを言った(言われた)気になりますね。
例えば公害が発生して、人が死んだりする。企業はどのように応対するか。法律上、点検整備はしっかりやってきましたよ。と釈明するかもしれない。あるいはその問題の発生は予見不可能でした。というかもしれない。
でもそれだけではなんとなく納得がいかない。もし僕が遺族だったらまず納得しない。どこが引っかかるか。例えば「法律上」という文言。「法律上」しっかり点検やっていたのであれば死んじゃうのはは仕方ないね、ということになるのか? 

この本は、責任のあり方に関する本。北田の道具立ては「強い責任論」というもの。
焦点は「ある行為が他人によってどのように記述されるのか」
ということ。だから、当人がどのようにその行為を位置づけるのかでは関係ない。行為の責任は、他者による記述=観察=異議申立てによって初めて世界内に現れる。
本人の位置づけなんかはどうでもよく、やったこと/記述されたことがその人のやったことだ、としてしまう責任論。これが「強い責任論」。たぶんね。

冒頭の事故や事件での違和感は僕らの解釈としての事件・事故と企業側が考えるそれとはズレがある、ということ。罰則/量刑の内容は別として、事故に対する企業側の説明で納得できなかった場合を想像してみて。
「強い責任論」は掬うことが出来なかった僕らの苛立ちを掬うことができる可能性がある。行為記述は企業だけがすることじゃなくて、見ている市民も同時に行っていることだから。そしてビューポイントが変われば記述内容も当然異なる。

② 耳を傾ける責任
「法律上」ということについて。この言葉が引っ張り出されることの違和感は「法律」という「基準」がドカンと鎮座ましましていること、そしてそ んな基準たちの持つ僕らの「それおかしいんじゃね?」という文句との差にある。なんか法律だからしょうがねぇけどなんか納得いかねぇということはまあザラ にある。
冒頭の企業の釈明に対する違和感について、北田は以下のように言う。

※ 《法》の前での応答=責任という点にかんしていえば、広報担当者は紛うことなく「責任ある」態度を貫いていたといえるのだが、問題はそうした 「責任ある」態度が(1)アンタの会社がウチの子どもを殺したんだ」と訴えかける行為観察者=異議申し立て人の、具体的かつ状況づけられた声、一般化しえ ない出来事の固有性に対する拘泥を、普遍的な適用可能性を志向した《法》の名の下にそぎ落とし、あまつさえ、(2)そうしたそぎ落としの残酷さを「道徳/ 効率性に適っている」という理由付けによってキレイさっぱり漂白してしまうという点にこそ見出されなくてはいけない。 ※

北田君、400ページある割りになかなか文体ばポップです。
でも難しい漢字好きそうです。

基準がかかわることの問題点は基準が納得できるものかということ。そして、基準の遵守という態度自体が時に暴力性を持つこと。
特に後者が大きな気がして、出来事自体は当然当事者間で起こったことにもかかわらず、しばしば加害者は被害者のほうを見ていないという現象が起 こる。企業の不祥事で社長は頭を下げるけど、誰に頭を下げてんだろって思う。なんかそういう「基準」にのっとって機械的に頭が下がる仕組みになっているん じゃないかってね。ししおどし的なメカニクスで。

強い責任論では自分が「何をしたことになっているのか」を他者の声なしに知ることが出来ない。遺族が企業に問うているのは法の前での責任の有無 ではなく、個人的な色メガネ/バイアス(死んだのが自分の息子である、といった)のかかった状態を承知の上で解釈された行為(おそらくは事故ではなく、殺 人と記述されている)にたいしての応答を迫っている。
だから強い責任論では「わが社が何をしたことになっているのか」耳を傾ける責任が生じるし、この責任論でにのると法律も含めた今ある基準自体への違和感にも目が向くことになる。