5.13.2007
1 強い責任理論とエンパワーメント
①で述べたように強い責任理論は、行為者のある行為を有責行為であると「記述」することにより、異議申し立てをする可能性がある。また、このことから異議申し立てのポジションを支援する可能性がある。
つまり、被害を受けた人の言を記述することによって、その声を社会に表出することが可能であるということ。環境NGOなどの活動の意義は強い責任理論からも定義することも出来る。
2 責任のインフレーション
同時に問題がある。強い責任理論は他者による行為記述によって責任が発生してしまう。だから、女性が料理をしただけで魔女狩りの対象となってしまうことを否定できない。ユダヤ人陰謀説とかね。
※ 「何をしたことになっているのか」の定義権を行為解釈者に委ねることによって、水銀をたれ流す企業の行為責任の剔出に成功した「強い」理論は、一方で、指を動かしただけで、「世界に秩序を乱した」ことにされてしまう魔女たちの責任をも承認してしまう ※
※ 魔女狩りを禁じえない責任理論の行き着く先は、無理やりにでも「悪い」出来事の原因を誰かの行為に見つけ出し、自らの行為をやすんじて免除する、壮大な無責任の体系とはいえないだろうか。 ※
ここで聞くべき《声》と聞かなくてもよい《声》の区別が問題になってくる。被害者の声とお客様相談室の無理難題のクレームをつけるおばちゃんは 他者による行為記述という基準を同じく満たしている。お客様相談室の担当者は無限に拡大するクレームの嵐から聞くべき声をより分けることは可能だろうか?
北田はここで二つの方策を提案する。ひとつの方策は聞く
べき声と聞かなくてもよい声の区別を打ち立てる方法。
これによって責任のインフレは収束させることができる。
しかし、回答に値する、クレームとそうではないクレームというものの基準は「強い責任理論」の中からは出てこず、別の「基準」を「密輸入」していることになるのではないか。そして、そもそも《基準》という権力関係の提示は別の暴力性をもっていることを示したはずだった。
そして、もうひとつは、「怖ず怖ずとした決断主義」。これは前回で触れたような基準フェチズムとサヴァイヴァーの声を区別しないということ。そ して、※ 出来合いの《基準》がないところで、他者の顔に直面しながら、その《声》をときとして遮る自らの原罪を自覚し続ける※こと。
3 大庭健のシステム倫理学
大庭は専修大の先生ですね。『他者とは誰のことか』とかでお世話になりました。大庭は《基準》の社会的・時間的安定化が、社会システムの継続に とって不可欠であることを認めたうえで、《基準》によって排除された「ノイズ」が《基準》の硬直化を阻む可能性に賭けるという戦略。もっとマシな《基準》 を作り出すかもしれないノイズを聞き取る=応答する感性を推奨する議論であるとのこと。
お気づきのとおり、こいつも責任のインフレ防止機能はもっていない。むしろ、他者の声に対して心を開きまくることによって。さらに責任のインフレが拡大する。
それが必要であるということとどう運用するのかということ
にかなりの距離がある。これだ、という回答は今のところでてきてないよ、という話でした。
そして雑感。
修士のときNGOを扱いました。この本を読んでいたわけではないけれど大庭の本は読んでいました。企業―NGOの間に問責―答責関係が形成される、ということを考えた。気がする。
僕がNGOはすごいと思ったのは。今まで表出されてこなかった事柄を可視的にしたということ。
これはメディアリテラシーとも関連していて、メディアは膨大なソースを取捨選択し表出するということへの再認識につながると思う。ワイドショーがおかしいと思うのは別にワイドショーが悪いわけじゃない。そういう考え方なのね、という再認識だけが残る。
この本の即していえば、企業活動を第三者的に記述し公表していったということになると思う。いわゆる『違法伐採問題』がこんなにポピュラリティ を獲得できたのは、NGOの活動によるところが大きい。少なくともとっかかりについてはね。大手のメディアは後から乗っかってきた。NGOで実際に働いて そいいう実感はある。そのことについて、業界人でもない市民(=素人)がまず取り組んだ意義は大きいと思った。
しかし、同時にウラで悩んでいたのが、NGOは実際たくさんあるんだけれど、結局のところ一部のNGOしか扱い得ないということ。調査には資本 が必要だし、多くの会員を抱えていた団体の方が声が強い。Greenpeaceのサイバーアクションで日本製紙に対する5000件を超える批判メールが寄 せられたことが原材料購入のあり方の変更を迫ることができたわけだけど、それは彼らがそれ以上の会員を抱えていたということがある。…ちょっと思いついた んだけど消費者団体的総会屋って儲かりそうだ。うそうそ。なんでもない。
要はある有力なNGOは市民団体的スタンスから乖離していくんじゃないかという危機感。特権階級的NGOしか問題を表出できなくなる危険性。表出するかしないかはNGOが決める、とするとこの団体も《基準》を持っているということなりはしないか。
議員へのロビイングも、それも前提として相手がノイズを聞き取る耳を持っていたということと同時に、ロビイング活動を行うNGOが相手方に問責 者、あるいはアドバイザーとして承認されていることが前提となっているはず。すっげー高いミネラルウォーター飲んでる彼氏も違法伐採問題は食える、と踏ん でいたはずなんだ。
他にも聞かないといけない声があるだろうが、表出の時点である種の淘汰が発生する可能性。そして、記述者はだれでもよいというある種リベラリスティック言説と、《基準》の変更という具体的な動作には距離がある、という事実。
一部のNGOは権力関係に作用する影響力を持っているということなの。何かを具体的に変えるのはこういう力であるとは僕も思うんだけど、釈然としない気分になった。