2010年12月19日日曜日
ymene
たぶん今年最後のライブだな。高木正勝をみるのは初めて。
ドリーミングなエレクトロニカを鳴らすヒト、というイメージだったけれど
ピアニストとしての彼は意外に打鍵音の強い、アタッキーなプレイヤー。
その上、椅子の上でくねくね踊ったり立ち上がったり。アクティブ。
もっと神経症みたいなヒトなのかと思ってたから。
出音の強さと、曲間の天然ト/途中で靴下を脱ぐ/手汗を上着で拭う等の
素行とのギャップが面白い。
今回はymeneは「夢の根」がコンセプト。
美しかったり激しかったりするピアノの音を背景に後ろのスクリーンで流れる
断片的な映像がコンセプトを象徴しているようにも見える。
映像をみると、僕は無意識にストーリーを求めてしまうのだけれど、
脈絡の無い、ぶつ切りに流れる映像はそれを許さない。
時に美しい映像が流れ、時にグロテスクな映像が流れ、「物語化」を拒否する。
時折現れるピアノを覆わんばかりのSEも聴衆が音楽に身を委ねさせるのを
許さないかのようにも思えた。
でもね、夢とはそういうものかもしれない。
無秩序で無軌道で、散らかっていて、夢から覚めるとあれはなんだったんだろう。
たくさんのきれいな、あるいは恐ろしいだくさんの欠片を見せることが
彼の意図であるのであれば、たぶんそれは成功している。
夢とはつまり、僕らが手にしている素材なのかもしれない。
見たいもの、見たくないもの。きれいなもの、醜悪なもの。
アンコールはリクエスト大会。
「それ難しいんやで」「それ昨日やった」「それ映像もってきてない」等。
"wave"と"bloomy girls"と"girls"をやってくれた時点で僕は大満足。
"girls"はドリーミーな映像とかわいらしいピアノがよく合っている。
あれ、"new flat"やったっけかな。
面白かったのは、曲を始めるときいくつかの鍵盤をピコピコと叩いて、
まるで音を捜しているように見えたこと。
「ちょっと中断、ピアノと仲良くなりますね」といってぽろぽろあそぶ様は
リハに立ち会っているようでもあったし、婦女子はきっと「ファニー。」と思っただろう。
本人もいうように「素の」高木正勝はきっとああいうヒトなんだろう。
同時に彼は音を散らかす。散らかした音の中から、「正しい音」を選ぶ。
細かい線を何回も書き重ねることによって輪郭を明らかにするような。
エレクトロニカという手法そのものがそれに近いけど。
ばらまいて音を捜す。選んだ音が次の音を導く。そんな印象。
一本の太い線をぐぐいと書けない僕は、彼のそういう仕草に
なんか親近感をもってしまった。
あー音楽は作れないけどね。あくまで性格的な話として。
「世の中の31歳はみんなくねくねしているの?」と、
僕のほうを見て放たれた疑問については、断固、否、とお答えしよう。
あれはきっと高木くんだけです。
2010年11月6日土曜日
つぶつぶ放談
国会はハチを突いたような騒ぎになってますね。
そのちょっと前はすべての質問者が「尖閣諸島は日本固有の領土ですが」が
枕詞になっていてちょっと面白かった。
尖閣諸島は日本固有の領土ですが僕はもう眠くなりました。
ほんとうに秘密にしたいことは、誰にも言わないことです。
それにしても代議士さんの言葉の使い方が悪い。
狡猾でひねくれていてほとんど罵詈雑言。聞くに耐えない。
議論と悪口言い合い大会を混同しているのかしら。
代議士になると性格が悪くなるのか、性格が悪いから代議士になれるのか。
僕らはだんだんとつぶつぶになって、砂質化している、とよく言われる。
こりゃマズイと、きずなだの協同だのゆいだのもやいだのとも言われる。
この種の試みがうまくいくのかどうかは知らない。
僕らがつぶつぶになったのは、昔、僕らひとかたまりのモノであったときの
悪い思い出があるからだ。僕はそのことについてよく知らないけれど、
少なくとも体育会系という人種は大嫌いだし、体育教師などみんな
クビにしたほうがよいと今でも固く信じている。
かつてひとかたまりであったとき、あるいはひとかたまりであったからこそ
自らを思い切りよく投擲してしまった。
また、ひとかたまりであるはずだったのにもかかわらず、あるつぶは
ひとかたまりとしては扱われなかった。そんなことがあった。
そういうふうにして、僕らはどんどんつぶつぶになった。
つぶつぶであると、さしあたりひとかたまりとしての振る舞いは求められない。
僕としてのつぶと、となりのつぶとはそりが合わなくてもお互いが等価な存在。
そりがあわないこと自体はもちろん面白いことではないが、
それはこちらもあちらも同じこと。
だから極秘事項や機密文書をyoutubeにアップされても仕方がないと思う。
僕ら一枚岩じゃないんだもん。つぶつぶなんだもん。
ダメっていえるはずないじゃない。
さらに面白いことに、この種の告発はさらに僕たちをつぶつぶにしていく。
きっとコピーキャットはいくらでも出てくる。
ただ、この行為をもって僕らがひとかたまりになるかといえば、まずならない。
小麦粉をふるいにかけるようにして、きれいにこなこなになっていく。
でもキレイで迫力のある動画でしたね。
ちなみに国益を損なう、と凄むヒトは好きではない。
つぶつぶをひとかたまりにしてやろうという野望が透けてみえる気がするから。
ハスに構えた言い方をすれば、「国益を損なう」と指弾する行為によって
そういうヒト(でなくてつぶだった)たちは利益を得ている、と
つぶとしての僕は思う。
威勢のいい代議士は自分が直面することがないからこそ、威勢がよいのである。
書いていて実につぶつぶ的な意見だな、と思った。
まとめると、つぶつぶな僕らは協約的な合意の作成がとっても困難であり、
昔のひとかたまりのモノに戻ることなど、もう不可能なのではないかと思うわけだ。
じゃあなにが起こるかといえば、たぶんなにも起きない。
なにも決まらない、お互いに足を引っ張り合う、ハキとせずうだうだしている、等。
ただ、この一年間でもこの国は致命的なエラーを犯したか。
エラーを犯すほど動けてないという意見が正解かもしれない。
欲を言えばきりがないけれど、そこについては素直に評価していいと思う。
だれがやってもそうなる。そういうユニークな統治機構なのだという理解はいかが?
機密性が保てない。それはもう立派なキャラクターだろう。
そんな国は核武装なんてできないだろうし、ステルスとか売ってくれないと思う。
全部ひみつしゃべっちゃうから。
隠し事できないタイプなんだ。
でもそれが安全を担保しているような気もするな。つぶ的には。
おしゃべりで八方美人のブリッコ。ツンデレではないな。悪くない。
日本鬼子を萌えキャラにしてしまう。そんな脱臼加減は秀逸だと思う。
ほんとメディアリテラシーが高いよね。近ごろの人って。
毒づくのが仕事だと思っている代議士に爪の垢でも飲ませてやればいいと思います。
つぶ的にはですが。
2010年8月29日日曜日
責任がある
と、友人がクダを巻いていた。彼は、霞ヶ関で働いて居て、しかもその時は割と酔っ払っていた。
彼の忙しさがどれほどのものなのかよく分からない、大学時代スタミナの塊のようだった彼は
すごく痩せていて、確かに疲れていた。
僕は責任を持つ、と応じたよ。投票したもんね。これ以上はたまらんとおもったからね。
僕が民主党に投票したのは、たぶん政局政局の繰り返しにウンザリしたからだと思う。
自民党内でくだらない足の引っ張りあいをして、グジュグジュと決めたんだかよくわからないことを言う。
君らはもうよい、とおもった。ちゃんと政策を話し合えと思った。
だから投票したんだと思う。
そういえば、選挙権を得てから自民党に投票したことないや。はは。
思うことは二つくらいあって、一つはやっぱり選んだ結果に責任をもつべきだということ。
くるくる支持を変えるということは、なにも変えたくないという意思表示にちかいのではないか。
負けるにはそれにふさわしい要因が確かにあったことはまちがいないけれど。
くだらない無用な政局を作り出しているのは、僕ら自身ではないか。
そして代表戦は結構なことだけれど、衆院選を経て一年間、君らはなにもしていない、ということを言いたいな。
本当になにかを変えるような決断を果たしたのか、それが実績か。そう問いたい。
結局、君ら自身も政局と戯れているだじゃないのか。
それじゃあ自民党とまったく変わらない。
なにもしていないくせに3回も首相が変わるような政党だったら、さすがに愛想つかすね。
2010年8月24日火曜日
ワイヤレスキーボード
現在Ipadを使用中なんだけれど、入力操作の違和感が解消されなかったので。
タッチ式のキーボードは場所を取らない。それはたしか。
でも、短文ならまだしも長文を書くのはとってもしんどかった。
非常に好調ですね。これ。
いい感じ。
2010年8月23日月曜日
フジフリカエリ10
また僕の車には第1駐車場の入場券が乗ってるけどね。残り香。
昨年は酷い雨だったけど、今年もフラれちゃった。
昨年豪雨で通行止めとなった、ホワイトステージへ至る仮橋は盛土して高くなっていた。盛土周囲はトンパックで補強し躯体は鋼板。仮設工というよりは本設。僕の現場ではまずできない。お金ないもん。
いい仕事してるね。でも高いぜこれ、という土木トークをいっこ主任と。
グリーンステージにクラッシャーランt20で敷いたらもっといいと思う。ちゃんと保安林の作業許可を提出いただいているとの掲示があったので、こちらも安心してモッシュできるというものです。
以下順不同
○them crooked vultures
デイヴ・グロールのドラム。
キットを「ぶっ叩いている」感じが非常に心地良い。繰り出されるアタック音は、今回聞いた中でダントツでかい。にしてもデイヴ先生。リストの強さというか出音の大きさが規格外。よくあれでバックコーラスとれますね。
兄さんからもらったレコードを聞いてみると、そこまでデイヴのドラミングは印象に残らない。とはいえタイトだしScumbag bluesのスネアの音は凄い。
けれどライブを見てないとそうは思わないだろうな。ジョシュ・オムのVoよりもデイヴのコーラスの方が声がクリアでして、そこはさすがのフーファイなわけだな。
フーファイでもデイヴが叩いてデイブが歌えばもっと説得力が出るかも。
もう日本に来る機会はないと思われる(観光ならあるか)
御大ジョン・ポール・ジョーンズもさすがの演奏を披露。見かけは老夫。ベースを下げると伝説の男。キーボードを弾く姿はやっぱり老夫。
こちらはレコードでこそ、強くつえっぺりんを感じるのです。非常に豊かなベースラインで楽しませてもらいました。いいかげん再結成しちゃえよ。
○atoms for peace
フリーのせいでファンキーになってしまったこのバンド。the eraser という繊細で複雑なレコードに肉付けがされた印象。血の通った演奏、これが本当の姿、なのか。
とはいえ、レコードにはまるで精細な静物画を思わせる冷たくて、鋭く切り取られたような風景が収められていて、それはそれで圧巻であると思うんだけど。
分かる部分と分からない部分で揺れながらみた今回のステージ。個人的に正直Radiohead は時に不快だ。理解できない部分が多い。聞いててイライラしていることもある。理解できる部分は共有できる部分なのか。あるいはセルアウトされている部分なのか。
僕は退屈している時間はあっても、飽きている時間はない。
打ち込みの鎧を脱いで剥き出しになった”video tape”を聴いて、確かでやわらかな
僕が40歳になったときにこんなに楽しそうにしていられるといいと思う。
○Jamie Cullum
彼のHigh and dryが聞きたかったんですよ。ああ、聞けてよかった。twenty somethingも聞きたかったんだけど、聞けて嬉しかったけど、もう僕はtwenty somethingではないから。
土曜はいろいろあって、やっと行動開始が午後4時。日中の強い日差しが陰りはじめた時間帯にジェイミー登場。ジャズピアニストとしての彼は、非常に現代なプレイヤーに映る。
ビル・エヴァンス以降のひとつの潮流。ダークなフレージング云々。
が、ロックの耳で考えると、彼のフレージングは単にギターのリフなのだ。すごくいい意味で。職業ジャズピアニスト/シンガーは単なるロック大好き少年 でした。
ピアニストとしてのテクニックはもちろん凄まじいし、歌もうまい。終始無邪気でうれしそうな表情に婦女子はイチコロだろう。なにより本人の満面の笑み。ステージを全力で楽しんでいたので、こちらももちろん楽しかった。
もうちょっとやるぞーの(本人志願の)アンコールも素敵。踊りながら陽光を受けて飲むビールは格別に美味しかったよ。
○Local Natives
ライブバンド。
Voがフレディに似ているという話をしていて(口ひげね)、聴いてるとほんとにフレディの声に似ているような気がしてくるから不思議。あとでレコードを買ったけれど、レコードからは ライブでこんなに複雑なことをしているのは伺い知れない。
正直あんまりレコードの音も良くない。分離が悪い。
来年のアースセレブレーションで鼓童と共演したらいい。キレがあってボトムがしっかりしているライブで見てよかった。頻繁過ぎるパートチェンジ、太鼓たたきすぎ、4声ハーモニーをつけすぎ。
でも”Shape shifter”は佳曲。すごく練られている。激賞。
曲調は明るくないのに、なんか励まされている気がするな。
○Bell and Sebastian
申し訳ないが初見かつ初聴。
ベルはおそらくあのグラマラスな彼女であるとして、セバスチャンはどっちだい?あ、バンドなんですねというレクを受ける。Peace for atomsで個人的にはお腹いっぱいになっていて、
後は流しちゃってもと思いながら、なんとなくビール片手にホワイトに。予想以上に楽しめた。あんにゅい。いとろうたげ。そんな感じ。何かを思い出しそうな、かわいいメロディ。
Get me away here, I'm dying が僕は好きです。かわいい。2Dからもらったデータが多すぎて探すのに苦労しちゃった。曲調からは信じられない、このタイトル。
今年も楽しかった。
なんか僕らの周囲にいる人たちはいい雰囲気です。
ずっと前から知っている人も、初めてお会いする人も、
なぜか兄妹が揃うのも、全部が面白かった。
誕生日お祝いしてもらってとってもうれしかった。
ジャンパンとケーキありがとう。
なぜかホチキスをもらったのもうれしかった。
みんなでげはげは笑っている雰囲気が、僕はなんだかとっても大事です。
あそんでくれたみんな、ありがとう。
僕は来年行けるのかな。まだわからないけれど、
いつかのフジロックでまた会いましょう。
2010年8月21日土曜日
で、僕はどう違うんだい?
2010年8月14日土曜日
ひとまずは
ということにしよう。
ちょっとさきばかり見てあせってしまう。
確定したことは確定ということで。
考えて見ると、 三年前の三月に上司と大喧嘩をしたんだった。
そのときは、絶対ここから出てやると思ったものだから。
ずいぶん時間がたってしまった。
そのときはno ideaだったわけだからずいぶんいろいろなことをした。
ほとんど形に残っていないけれど、僕もほとんどわすれているけれど、いろいろあった。
と思うんだよ。
まだ完成してなくて、ひっくり返される可能性も含みながら、
それでもよく頑張りました、と自分にいってあげよう。
今日ぐらいはね。
2010年8月5日木曜日
暑いから休みませう
暑い、汗が出る時は、自分がなにか作業をしているときであるので、
何もしなければ、まあ、汗はしっかりかいているのだけれど、それほどでもない。
それほど不快ではない。
僕の場合はアトピー性皮膚炎なので、汗は猛烈にかゆみを増すので
猛暑日に僕に僕に作業をさせないで。
ベトナムいったらどんなだろうか、と思う。今年は海外旅行はしませんが。
今日言いたいことは、何も猛暑日に100歳以上のお年寄りを探さなくても
いいんじゃねえの、ということだな。例えばこれが半年遅れて、なにか致命的
な問題がでるか、といえばきっとでないでしょ。
生きている人は生きているし(熱中症に注意)、死んでいる人はずっと死んでいる。
違法に年金受給している人はわかり次第返してもらう。それだけだ。
だから目くじら立てることはないじゃない。なんで急ぐ必要があるのかしら。
暑いんだからさ。涼しくなったらやったらいいのに。
こんなに効率の悪い時期の仕事に残業代とか払うのが逆に市民としてムカつく。
2010年8月3日火曜日
佐渡→苗場→東久留米
2010年7月10日土曜日
まったく上手くいかない
2010年7月2日金曜日
にー
2010年6月11日金曜日
「Kings'Xは驚異的なバンドだ」
とビリー・シーンがIn rock誌でのたまうもんだから、
当時15歳の僕はナルホド、と思い、レコードを買いに行った。94年のことだ。
シッピングであると1ヶ月くらいかかってしまうのに
いまはダウンロードで一瞬で届いてしまうから、時代は変わったものだ。
でもね、僕レコードジャケットみるのが大好きなんですよ。
で、King'sX。
ソングライターの二人と、バンド自身の
都合3枚の彼らの92年周辺楽曲のデモ集を出すという
暴挙に出ている。しあわせ。
・Ty Tabor - "Tacklebox (Ty Tabor Demos Vol. 1 & 2)"
・dUg - "Songs from the Closet (Doug Pinnick Demos Vol. 1)"
・King's X - "The Bigger Picture (4th Album Pre-Production Recordings)"
http://
聴き比べてみるととても面白い。
ビートルズ仕込みのポッピーさと構築主義的、立体的な曲の彫像は
gのタイのペンの曲であり、
ド・ファンクでグルーブが効いていて、それでありながら
なぜか寂寥感を覚える曲はbのダグの曲という分担。
やっぱりね、という感じ。ちょっとにんまり。
こうやって持ち寄ったのね、と考えるとちょっとほほえましい。
タイはポップでテクニカルな曲を書くけど、
声は素直で、薄くて高く、デモでは多重ハーモニーで補う。
ダグの声は深くてブルージーだけど、ノリ一発で単調な曲も多い。
まあ、彼ってファンキーだからさ。デモでもベースの音でけーよ。
バンドのデモは当時大流行のオーバープロデュースを免れており、
骨格むき出しで、オリジナルよりも聴きやすいのが面白い。
「早すぎたオルタナティブ/クロスオーバー」と呼ばれた彼らだが、 実際のところ、
オルタナティブと呼べる要素といえば、ダウンチューニングくらいしかなくて
今考えると少し不思議な感じがある。
タイのリフはヘヴィというよりも丹念に構築された印象の方が強い。
92年当時の”ローリングストーン”誌のレビュー「まるで目がくらむようなタペストリー」
という形容が、特に初期の彼らに関してはしっくりくるなあ、と個人的には思う。
94年以降の彼らは構築主義的な方法論から、直情的な方法論に転換してしまう。
識者からは「オリジネイターがムーヴメントに擦り寄る愚挙」と批判される始末。
B!誌からは66点を頂戴する始末。
シングルコイルの艶のある、どこかクールな音色は失われ、
グランジ・オルタナティブを表象する、あのささくれた音色に確かに変わった。
だから彼らについて考えるとき、どの時期を評価するのかが大きな問題なんだろう。
もっとも、僕としては転換以後もある種のうれしさがあった。
構築主義的な曲調が大きく後退した代わりに、ダグの声が全面に出てきたから。
虚飾を取り払ったあとに出てきたものは、開放され躍動する強烈なグルーヴと
深く暖かいダグの声だったから。
彼らは最初からこういうことをしたかったんじゃないか、と。
それはたしかに、Pearl JamとかNirvanaとかそういう人たちと近い音を鳴らしていた
のかもしれない。でも、だからといって彼らの演奏の価値を減じるものではない。
僕が大好きなのは89年1stのgoldilox。
youtubeで探してみたけど、どれもオーディエンスの声がいっぱい。
ダグもしょうがねーなー、という風。かわいらしい。
皆さん声そろってますね。ハーモニーつけてますね。
いいなあ、ライブいきたいなぁ。
ついでに、ビリー先生を召還する。
動きも顔もオモチロイが、すごい演奏。
ビリーシーンはベースを「歌わせる」希有な人である。
それは彼が目立ちたがり屋なせいもあると思うが、なにより
彼の使用音域が基本的に高い(今回はソロなので特別高い)せいもある。
使用フレット位置がギターみたい。
これを見ていて、ダグが左利きなのにいまさら気がついてみたり。
これじゃあ、ようわからん、というひとはオリジナルを。
ファーストのころのダグは今よりも声が細くて、儚げなVoが秀逸。
アメリカ的、大陸的、フロンティア的、うまく説明できぬが。
な、美しさと悲しさを感じるのさ。
たぶんフロンティアの記憶をもつ人間にしか、ああいう音楽は作れないんじゃないかな。
2010年5月15日土曜日
ロングライド
昼間のちがい
2010年5月9日日曜日
連休の至福といってよい
ごろごろしながら本読むってステキ。
日本の製紙会社は大雑把にいって二つの会社がある。王子製紙と日本製紙だ。この二大グループは戦前、もともと一つの会社だった。財閥解体で細切れにされ、六〇年かけてようやく二つにまでなった。
ところで、なんでパルプ会社が財閥解体にあわなきゃならんのか。僕は今ひとつ理解できなかった。パルプ産業の始祖は、本当は渋沢栄一なんだけど満鉄あたりから脇道へそれ、実質的な母体は亜細亜産業/亜細亜パルプという会社であったという。国策会社というか右翼会社。現在ではなんとも理解し難い組織あるようだ。実質一社しかなくて、集中排除法なわけだから、いいのかもしれない。
イメージ重視で非常に恐縮だが、東京の東北部は僕にとってかなり怖いイメージがある。王子とか北千住とか十条とか。製紙会社が乱立しているあたり。埼京線で池袋より北にいくと突然さみしくなる。そのあたり。カントリーサイドオブトーキョーの出身だからか。
東京の古い工場地帯であり、あまり治安がよろしくないイメージ。でもこういうところは物価が安くて住みやすいらしい。緑ある都会を演出している府中とか、牧歌的すぎる東久留米とは空気が違う。就職活動で日本製紙を受けたときに建物は真新しさと、周囲とのギャップが妙に気になった記憶がある。
そして下山事件の舞台も北区の十条とか王子のあたり。僕、心霊にはあんまり縁がないけど(怪談話はスキ)、地霊・地縁にはけっこう興味あります。ゲニウス・ロキ。
「下山事件~最後の証言」柴田哲孝
児玉誉士夫とか田中清玄とか白洲次郎とか「戦後の日本史を代表する何したかサッパリわかんない人々」が列挙されるのがなかなか壮観である。読んでもやっぱりわかんない。
僕が怖いと思う印象と下山事件の不可解さは割とあのへんの印象とかぶるものがある。ふと気になって犯罪発生率を調べたら、北区は普通でした。となりの足立区が大変なようですが。街の印象と履歴(にしては割と新しいものだけど)は割と気にするほうなので。科学的な視点とは言えません。殺伐とした東久留米市民は4万人くらいいるでしょうから。
思うのがエピソードを読むと活写劇のように不思議と生き生きとしていること。不謹慎の謗りは免れまい。ごめんなさい。「大陸から財宝をかっさらってきた」などという記述をみると、もはやワンピースのようである。こんなの海賊である。戦後、右だ左だとかいっているうちに定型化/定常化が進行した感はある。だから妙に新鮮に読めてしまうのかも。今ごろ白洲次郎が称揚されてみたりするのも同じ感じだろうか。定形に飽きちゃった。国境なんて超えてやるゼ、みたいな感じだろうか。同時に、定形が「越えられない壁」になっている印象も強い。フテンマとかね。あ、くどいですか僕。
ルフィは思想を語っているか。いいや。でもなお魅力的ではあって、海賊王になりたいかといえば、吝かではない。つまり、思想なんてホントのトコロどーでもいいのかもしれない。「「先生」は思想的にはゼロの男さ」(@羊をめぐる冒険)。
でも、やっぱり血が流れるって現実ではすごく悲惨なことだ。基本的にルフィは超タフだからさ。フィクサーたちの行状が僕らには「よくわかんない」のは、ちゃんと語られてしまったらすごく身も蓋もないから、じゃないのかと僕は推測する。そもそも僕らはちゃんと「血が流れる」こともよくわかってないわけで。